『モモ』を読む(西洋の児童文学B、2021/2/19)

福西です。

『モモ』(エンデ、大島かおり訳、岩波書店)を読んでいます。

12章「モモ、時間の国につく」を読みました。

「時間がおしまいになる」(=死ぬ)ことを、ホラは次のように説明します。

「あるいは、こういうふうに言えるかもしれないね。おまえじしんは、おまえの生きた年月のすべての時間をさかのぼる存在になるのだ。」

また、モモが「あなたは死なの?」とたずねた時、ホラは次のように返事します。

「もし人間が死とはなにかを知っていたら、こわいとは思わなくなるだろうにね。そして死をおそれないようになれば、生きる時間を人間からぬすむようなことは、だれにもできなくなるはずだ。」

「そう人間におしえてあげればいいのに。」

「そうかね? わたしは時間をくばるたびにそう言っているのだがね。」

死について、耳に入っても聞こえない、そんな忙しい(心を失った)状態を反省させられるくだりです。

一日を振り返ると、無自覚な行動の時間がたくさんあることに気づきます。たとえば、学校やコンビニなどに向かうとき。たとえば、同じ交通機関を利用しているとき。「いつの間にか着いていた」とき。自分はその時間の主人たりえたのかと問われると、自信がなくなります。

この「いつの間にか」は、ベッポの道路掃除のそれとはちがって、「怠惰な多忙」と言われてしまいそうです。時間が自動的に流れるほど、便利であるかわりに、生きた部分を失います。

セネカの『人生の短さについて』に、次のような文章があります。

この人が浴場から人手によって運び出され、輿に乗せられたとき、不思議そうにこう言ったという。

「おれはもう坐っているのか。」

こういう自分の坐っているのかも分からないような者が、自分は生きているかどうか(…)知っていると考えられるであろうか。

─セネカ『人生の短さについて』12.7(茂手木元蔵訳、岩波文庫)

セネカの言うのは、時間管理を他人にゆだね、「時間を注意されて風呂に入る、輿に乗る、ご飯を食べる」と、一日を自動的に過ごしている人のことです。

また別の箇所でこうあります。

「何かの考えごとに熱中などしていると、旅人は旅も忘れ、行き先に近づいているのも知らないうちに到着してしまうものである。それと同じように(…)多忙に追われている者たちには、終点に至らなければそれが分からない」(9.5)

「君は多忙であり、人生は急ぎ去っていく。やがて死は近づくであろう」(8.5)

「生涯をかけて学ぶべきことは死ぬことである」(7.3)

と。

一方、カメのカシオペイアはどうでしょうか。彼女には30分先の未来が見えます。未来が見えると操り人形のような生き方になるかと言うと、その反対だと思います。なぜなら、その少し先の出来事に対して自分がどんな態度をとるのか、その点において自由を持ち、それによって現在をつむいでいると思われるからです。

カシオペイアのような、全体の結末を見通すことはできなくても、少しだけ先(=「現在」の死)を見据えながら時間をつむぐ生き方は、いつか来る終点に対しても自覚的であり、ホラの声を聞く態度なのだろうと思われます。

それは本読みにもたとえることができそうです。「少しだけ先を想像しながら」読むことは、流し読み、飛ばし読みとはちがって、じっくり味わうことになります。(そして読了もまた「すべての時間をさかのぼる」ことです)

モモの「暇」も素晴らしいですが、カシオペイアの少し先を読む「賢明さ」も見習いたいものです。