西洋の児童文学を読むA(2020/8/27)

福西です。

『はてしない物語』(エンデ、上田真而子ら訳、岩波書店)を読んでいます。

最終章、「26 生命の水」に入りました。

この章は「もはや名前を持たない少年」の書き出しで始まります。

ファンタージエンで、帝王になりかけたバスチアンは、遍歴の末、(元の世界の)自分の記憶を持たない存在となり、アトレーユと再会します。そのアトレーユの記憶に助けられて、バスチアンは最後に自分の名前を取り戻します。

バスチアンはアウリンを外し、地に置きます。

すると、アウリンが大きなドームに変身します。その中に双頭の蛇と生命の泉が現れます。

そこに近づいたバスチアンは、ファンタージエンでの「美しい、強い、怖れを知らぬ英雄」ではなく、「ただのバスチアン」に戻ります。

バスチアンは帰り道を探していたわけですが、アウリンこそが、それなのでした。ずっと手放さなかったものを、手放したとたん、出口となったのです。

「無条件に誰かに愛されたい」という次に、バスチアンがアウリンにかけた望み。最後のそれは、「誰かを愛したい」というものでした。それは「生命の水を父親に持って帰ること」によって実現します。すなわち父親に会いたいと望んだことによって、バスチアンは現実世界に帰ってきます。

「父さん! 父さん!──ぼくだよバスチアン──バルタザール──ブックス!」

 

「父さん! 父さん!──ぼくだよバスチアン──バルタザール──ブックス!」

同じ声が、緑と赤の文字とで繰り返され、バスチアンは元の世界(本の外側)に戻って来ます。

アウリンが消えたように、本の『はてしない物語』もまた、彼の手元から消えています。

父親のために持って帰ったはずの生命の水もまた、手からこぼれてしまっていました。

それでも──

何度も読んでいるはずなのに、私も認識を新たにしたことがあります。私たちが現実に手にしているもの、本がアウリンなのですね。アウリンを置いたら、現実に帰ってくる。つまり、本を置いたら、現実に帰ってくる。でもそれはさっきまでの現実ではない。認識が変わっているからです。そして、本の中での経験を、本の外にいる誰かと話したい」──物語の「はてしなさ」とは、そういうことなのかなと改めて考えさせられました。

ここでは書き尽くせませんが、複数人で読むことは、複数回読めるチャンスなのだと実感しました。

 

あと数ページ読み残したので、来週に補講します。

みんなで読了し、その余韻をたっぷりと味わいたいと思います。