福西です。この日は、詩を二編取り上げました。

 

『こころ』 金子みすず

 

お母さまは

大人で大きいけれど、

お母さまの

おこころはちいさい。

 

だって、お母さまはいいました、

ちいさい私でいっぱいだって。

 

私は子供で

ちいさいけれど、

ちいさい私の

こころは大きい。

 

だって、大きいお母さまで、

まだいっぱいにならないで、

いろんな事をおもうから。

(──金子みすず『さみしい王女』より)

 

 

『郷愁』  三好達治
蝶のような私の郷愁!……。

蝶はいくつか籬(まがき)を越え、
午後の街角に海を見る……。

 

私は壁に海を聴く……。

私は本を閉じる。

私は壁に凭(もた)れる。
隣の部屋で二時が打つ。

 

「海、遠い海よ!
と私は紙にしたためる。

――海よ、僕らの使ふ文字では、
お前の中に母がゐる。

そして母よ、仏蘭西人の言葉では、
あなたの中に海がある。」

(──三好達治『測量船』より)

 

さて、最初の詩ですが、金子みすずと言えば、小学校の教科書でも取り上げられており、生徒たちからも「知ってる!」と声が上がりました。  ただ、これは学校教育だけではなく、自分をも批判することになってしまうのですが、「知っている」だけでは、つまらないものです。詩は、作者自身との対話になって、はじめて喜べるものだからです。ですので、こうして一つだけを「言葉の標本(死骸)」として切り抜いて紹介するのではなくて、できれば詩集として、人格と人格とが向い合わせになることを味わいたいと思っており、他の作品も重ねて読んでいきたいと考えています。

 

いつもの本読みのスタイルだと、読んだ所は一回きりですが、今回はさっと読むだけでは聞き逃してしまいがちな、ある理屈が語られています。それを見落とさないように、一人ずつ、繰り返し読んでもらいました。もちろん詩はゆっくり読む方がいいものです。ゆっくりであるほど、味が出てくるからです。ただ、詩を声にすることは恥ずかしさとも裏返しであり、それがどうしても苦手な人は、授業でしたように、繰り返すことで、結果、時間をかけるようにしてほしいと思います。そうすると、必ず新しい発見があるものです。

 

詩の中で、子供である「私」が立てた理屈は、十分生徒たちにも理解できるものだと思います。(むしろお母さんの視点に立ってくれるのではないかとも思います)。お母さんの心は、小さいはずの子供のことでいっぱいになるのに、子供の心は、お母さんのほかにもいろんなことが入るすき間がある、だから子供の心の方が大きい、というわけです。

 

文法的には何ら不思議ではないのに、文の作る音色はいたって不思議です。そのような子供らしい誇張、胸の張り方には、いつまでも愛してやまないものがあります。

 

もちろんこの詩を書いている作者本人は、生徒たちから見ても当然、大人の人です。ただ彼女は様々なつらい人生の局面に立ち会いながら、26歳の若さでこの世を去り、その間、何度も自分を励まそうとして、自身の子供時代を源にしながら詩を書いています。その一つが、上の詩です。それが、一つ、二つではないことを、生徒たちもいつか知って欲しいと思います。今は作者から切り離されて紹介されていますが、作者という文脈こそが、本当は一番味わってほしいエッセンスです。

 

詩人の詩というものは、作者にとって、すべて「書かなければならなかった詩」であり、金子みすずの詩もまた、おしなべて、日常の温かさを求める切実な真剣さがあります。そして、七五調に乗せた母のように柔らかな口調で包まれた、あたかも子供が「今」そう思っているかのような書きぶりは、彼女が最後まで大事にしたかったもの、みじめな現実にあっても踏みにじられてほしくない彼女の理想を、今もなお普遍的に映し出しています。

 

ちなみに私がこの詩を持ってきたのは、以前『おかあさんの目』を紹介した、そのつながりです。それは、とりもなおさず、この詩を「鈴の音」のように、一度は耳に入れておいてほしかったからです。そうすることで、二回目の音色は、最初とは違ったものに聞こえてくるようになるでしょう。きっと、「あの時」はそれほどとは思わなかったことでも、「その時」には大事に思えるようになるものと信じています…もしも、「あ、また聞こえた」という感じ方を体験したことがあり、それがなつかしさとともに変化するものだとするならば。

 

そのように、折々につけ、その詩を見かけた時の感じ方、またその偶然を大事にしてほしいと思います。

 

二つ目の詩は、見るからに漢字が多く、いかにも角ばった男の人のような姿をしています。(授業ではルビを振ったものを渡しました)。そして金子みすずの詩とはまた違った理屈っぽさが魅力的です。

 

ところで、三好達治は、大阪出身で、東京に出てフランス語を修めているのですが、実際にフランスに留学した経験はなかったそうです。(違っていたらすみません)。そこで、私は、彼が「もし自分がどこか海の見える町の安いアパルトマンに下宿していて(あるいは今住んでいる場所がそこだとして)、遠く故郷を離れていたとしたら…」というような空想で、この詩をしたためたのではないかと、イメージしながら読みました。

 

親元を離れた土地で、外国の字で書かれた本を読んでいるうちに、はたと目に留まった、mereという文字。そこで窓の外の海を思い浮かべます。次いで、独り、狭い部屋の四隅を見渡すと、山積みにされた本はあっても、日本の字で書かれた書物が、一冊もなかったとします。あるいは虚しく目に付くのは壁ばかりかもしれません。

 

薄いその壁にもたれると、まるで耳に圧し充てた貝殻のように、二時の音が聞こえます。無性に日本の字が懐かしく、飢えを感じます。そして、手づから、「海」と書いてみることにします。すると、その中に、思いがけず、母という文字を見つけます。はたと郷愁に駆られたその思いつきは、紙の上から蝶のようにひらひらと出ていって、窓を抜け、街角のまがきを越え、海の上まで飛んでいきます。けれども、現実に故郷の海が近くなるわけではありません。そのように、そこにはいない自身を取り巻く抜け殻のような現実が、さきほど日本の文字で書かれた本を探した時のように、胸をしめつけます。

 

そのような時に、「mere(母)の中には、mer(海)がある」ということを思いつきます。「海の中に母、母の中に海」…そうか、そうだったんだなと。そのような他愛もない発見が、寄せては返す波のように、作者の心を落ち着かせます。そしていったんは居場所をなくしかけた心は、再び、自分の部屋にまで舞い戻ってきて、それで、そのことを詩にしたためようと思い立った…。

 

…のではないかと、私の想像を交えながら、生徒たちと話したのでした。 さて、生徒たちは、「海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる」というフレーズに、「ほんとや!」「え、どこどこ?」「ほら、ここが…」「あ、ほんまや」と うなずき合ってくれました。最後の仏蘭西人の言葉の方は、一応私からも説明はしましたが、それはそれとして、また大人になった時に、自分で確かめてほしいと思います。

 

最後に、「郷愁とは何でしょうか」と、生徒たちに質問しました。生徒たちは当然のように首を傾げていました。そのような反応をこそ、実は私は期待していたわけですが、おそらくここで答えたことよりも、「分からない」のが正解でしょう。たとえ「郷」という字がふるさとを表し、「愁」が、今の季節のように心を動かされて思うこと、というように、漢字の意味が分かったとしても、まだ実感していない以上は…。おそらくはそれが自然なことなのだと思います。でもこれも先に述べた「鈴の音」と同じで、一度耳に入れておいてもらうことで、次にまた別の反応が返ってくるのではないかという期待を抱いています。

 

また、「(日本の)字に飢える」ということが、これから先、生徒たちの人生にあるかどうかはまだ分かりませんが、この日の詩の印象とあわせて、以前した「瞳の中には童がいる」というようなこともまた、いつか懐かしく取り出してもらえるならば、きっと幸いです。

 

残りの時間は、お話作りの続きをしました。こちらは女の子同士集まって、キルトをつづるように、少しずつ長くなっていく作品の完成が楽しみになってきています。

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