西洋古典を読む(中高生)(2019/11/6)その2

福西です。

受講生のA君が今日の箇所の「名誉と怒り」に関連して、『ニーベルンゲンの歌』について話してくれました。

ハゲネがエッツェル王のもとに向かう道中、水の乙女(ローレライ)から自らの死と敗北を予言されます。ハゲネはそれを聞いて、死には納得し、敗北には怒った、というのがA君の関心でした。

死と敗北とがイコールではない認識。死ぬというストーリーには納得できるのに、敗北というそれには怒るというハゲネの感情は、どこから生じるのか、と。

A君が言うには、「名誉の発生源は、自分ではない。仲間です」と。

「ゲルマン人は、自分のためではなくて、仲間のために戦うのです。なぜなら、名誉は生前の自分にではなくて、死後の仲間たちにおいて完成するからです。そして、自分がもし敗れて死んでも、仲間がその戦い方を見て鼓舞され、引き継いで勝利してくれるなら、敗北ではない」という考察でした。

だからハゲネは、仲間のために戦うことで避けられない死には納得しても、その死が(自分の敗北を超えて)仲間の敗北とイコールで結ばれることを不名誉に思って怒ったのではないか、と。

「ゲルマン人が死の先に何を見ていたかを考えると、深いです。繰り返し読みたくなります」とA君は言い、私も大変興味をそそられました。

 

A君はさらに、ブリテンの『ベーオウルフ』や『アーサー王伝説』についても触れました。

『ベーオウルフ』は、前半では若者の水魔グレンデル退治が、後半では老王の火竜との相打ちが物語られます。はたしてそこに個人的な力の栄光と没落を、勝ち負けの結果だけを読み取ればいいのでしょうか。

A君はこう考えます。「ベーオウルフはいつも、周りの人のために、仲間のために戦ったのです」と。

その精神が前半も後半も一貫している、だからあの物語はグッとくるのだと。

ベーオウルフは、勝てる見込みがあるから戦って勝利した=すごい、となるのでもなければ、勝てる見込みがないのに戦って死んだ=ああ、となるのでもなく、「最後まで、はじめと変わらない矜持で、仲間のために戦った」物語だから、つねに読みごたえがあるのだと。

 

そしてアーサー王伝説と、ベーオウルフやゲルマンの伝承との相違点は、キリスト教的価値観が入ってきたことだとA君は言います。

「アーサー王や騎士たちの行動原理は、死後の名誉や仲間のためというより、キリスト教的な道徳観、『私は善人である。だから善をなすべきである』ということです」「そして、その善人としてのぼりつめたアーサー王は、円卓の騎士をまとめるために、『現状維持』を選ぶことしかできなくなっていったのです。厳然たる法の執行者であるよりも、善人であることを選択し続けたらどうなるか。停滞です。ラーンスロットの行動を常に黙認するしかなく、それに異を唱えるモルドレットたちの行動も常に宥めるしかありませんでした。そうして円卓は何も変わらず、ただ時間だけが流れ去り、変化する周囲の情勢から取り残されました。それで破局に至ります。現状維持を選択することで現状を維持でなくなったのです。そして聖杯の探索にも失敗しました……」と。

アーサー王は、カムランの丘でモルドレットと相打ちになります。その結末をアーサー王がもし予言か何かで知っていたとしても、前述のハゲネの場合とは味わいが異なるでしょう。それをA君は指摘してくれたのだと私は解しました。

私はこれまで、アーサー王の話になぜ聖杯探索が出てくるのかに実感が湧かなかったのですが、A君の話を聞くうちに、それはもしかしたら、新しい選択肢を生むために、新しい価値を円卓に持ち込もうとしてもがくアーサー王の姿だったのしれないと思いました。後ろ盾の弱かった(というより無いに等しい)諸侯たちの合議制社会で、キリスト教的価値観を後ろ盾にしようとして、果たせなかった騎士王……。

A君の言う通り、これらの物語にはそれぞれの違いがあり、重ねて深いのだと感じました。