福西です。

ことばのクラス(現在では「1~2年」と「5~6年」)で俳句をするときに、『こども歳時記』(長谷川櫂/監修、季語と歳時記の会/編著、小学館)を使っています。

その監修の言葉を最近、読み返しました。改めて大事にしたいことが書かれていると気付き、初心にかえりました。俳句をクラスで取り入れている先生にとって、重要な情報だと思います。長いですが、転載します。

 『子どもの俳句、大人の俳句』 長谷川櫂

 子どもの俳句はどうあるべきか。
 この問いは昔から漠然とした形であったのですが、数年前に小学校で俳句の授業がはじまってから、急に切実な問題として浮上してきました。
 いちばん真剣にこの問題に向きあっているのは学校の現場でじっさいに俳句の指導をしている先生方だろうと思います。しかしながら先生方だけでなく俳句に関心のある人なら一度は考えておいたほうがいい問題ではないかと思います。というのは、「子どもの俳句はどうあるべきか」という問いは子どもの俳句の問題だけにとどまらず、ただちに大人の俳句の問題へとはねかえってくるからです。
 子どもの俳句をめぐっては大きく分けるとふたつの考え方があります。ある人は「子どもは子どもらしい俳句を作るべきだ」と考えます。この考え方は子ども時代に対する大人の郷愁から生まれたものです。それは「子どものころはよかった」というもはや取り返しのつかない、いわば大人の身勝手な思い入れにほかなりません。
 この考え方をとると、子どもたちに大人の理想の子ども像を押しつけることになり、子どものほんとうの姿を見失ってしまうおそれがあります。現実の子どもには大人同様、悩みも苦しみもある。ときには残酷であり、醜い存在でもあります。
 反対に「子どもも大人のような俳句を作るべきだ」と考える人がいます。この考え方は「子どもより大人は優れている」「子どもは不完全な大人である」という大人の自惚れにもとづいています。子どもは大人の予備軍であり、やがてはみな完全な大人に成長しなくてはならないと考えるわけです。
 私はどちらの考え方もおかしいと考えています。かりに子どもらしいだけの俳句でよしとするならば、時間の流れとともにたちまち忘れ去られてしまうでしょう。一方、子供たちに大人の俳句のまねをさせるのは、子どもたちが秘めている新鮮な感受性というせっかくの宝物をムダにすることになるからです。
 ここで私の考えをお伝えしておくと、子どもの俳句はふたつの資質をそなえていなくてはなりません。ひとつは子どもにしか作れない俳句であること。大人になれば失ってしまう子ども独自の感性の感じられる作品であることです。
 もうひとつは大人の鑑賞にも堪えるものであること。いいかえると、子ども、大人という世代の区分けを越えて大人も感動する俳句でなくてはなりません。
 たとえば、こんな句です。

  きょうりゅうはほねしかなくてすずしそう 内田蓮(小2)
  冬の日はずうっと風がたびしてる     中山乃維(小5)
  水でっぽううらぎらないとつまんない   古川豪(小5)
  焼き芋をわれば光があふれてる      石原景太(小6)

 どの句も子どもの感性がいきいきと輝いていて、子どもでなければ決して作れなかった俳句です。それでいて大人が読んでもおもしろい句です。こうした子どもたちの俳句、しばしば型破りで、ときにはあっと驚く子どもたちの俳句に大人はむしろ学ぶところがたくさんあるのではないかと思います。
 子どもとは何か。彼らは大人とは別の「郷愁の世界の住人」ではありません。また「不完全な大人」「大人の予備軍」でもありません。やがては大人になるわけですが、それで完成するとはだれもいえないはずです。自分自身を振り返ってみればわかるとおり、大人も不完全な存在であり、年齢とともに日々変化している。この点、子どもと同じなのです。
 こうした変化しつづける人生の一幕として子どもの時代があるのです。人間は子どもの時代にもっていた新鮮な感受性を成長という名のもとに失ってゆくのかもしれない。とすれば、大人こそ子どもより「不完全な子ども」なのかもしれません。大人は子どもの俳句にこそ大いに学ぶところがあると思うのもそのためです。
 芭蕉があるとき、

  俳諧は三尺の童にさせよ。初心の句こそたのもしけれ。(『三冊子』)

と語ったというのも、まさにこのことです。

──『子ども歳時記』(長谷川櫂/監修、季語と歳時記の会/編著、小学館)

上で挙げられている「子どもの俳句」の資質として、
1)「子どもにしか作れない俳句であること」
2)「大人の鑑賞にも堪えるものであること」。

両方大事というのが筆者の主張です。

前者については、私にはまだ分かっていないことが多く(俳句が目指す普遍性という意味で、結局、子どもの俳句と大人の俳句とを分ける必要があるのかどうかという点で引っかかり)、安易に首肯できないので判断保留とします。現時点の私は、とりわけ後者によって目から鱗が落ちたことをお伝えします。「子ども、大人という世代の区分けを越えて大人も感動する俳句でなくては」ならないことに首肯します。

「子どもだからこれぐらいでいい」という基準を設ける大人には、緩みがある。

自分の感動・はっとしたことを俳句にする。その俳句が人をも感動・はっとさせる。そのような俳句作品の作者として、子どもも大人も関係ない。

またそれに対する読者としても、子どもには子どもの鑑賞者、大人には大人の鑑賞者、という区別はない。その意味では、子どもであろうと、大人の鑑賞者を感動させなくては、本物ではない。たとえるなら、厳然とした山に向き合い、それがゆえに「よし」と思えること。

以上の考えをまとめると、
1)「普遍に対して自身の不完全を自覚すること」
2)「それぞれの人生の幕で、それぞれが俳句を真剣に目指すところに、(子どもも大人も)一致した関係性があればよいこと」
その二つが大事なんだろうと思います。

長谷川櫂さんの『子どもの俳句、大人の俳句』から、そのように私は振り返りました。

 

 

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