福西です。

ウェルギリウス『アエネーイス』(日本語訳)の1巻180行から226行を読みました。

アエネーアスはカルターゴーの岸辺に着き、不安な一晩を過ごします。

203行目の部下を励ます台詞、「おそらく、これらのこともいつか思い出して喜べるだろう」(forsan et haec olim meminisse iuvabit)は有名です。またそこは『オデュッセイア』12歌の208行から212行目が下敷きになっています。それを確認しました。

親愛なる者たちよ、われらはこれまでも危難を知らずに来たわけではない。今の場合も、キュクロプスが恐るべき暴力をふるって、われらをうつろな洞窟に封じ籠めた時にまさる危険とはいえぬ。しかもその時ですら、わたしの勇気と知略と才覚とによって、無事に難を逃れたではないか。現在の難儀もいつの日かよい思い出になるであろう。さればわれら一同心を合わせ、これからわたしのいう通りにしてもらいたい。…

─『オデュッセイア(下)』(ホメロス、松平千秋訳、岩波文庫)12.208-212

A君は、オデュッセウスとアエネーアスの人間味の違いを指摘してくれました。

「いつか思い出して喜べる」と同じことを言っても、オデュッセウスには人間臭い打算が感じられます。部下が動いてくれないと、自分が家に帰れなくて困るからです。一方、アエネーアスにはそれが感じられず、純粋に部下の不安を和らげようとしています。そして部下のために、リーダーたる自分は不安を押し隠しています。(その不安がこの後に読む『ユーノーの神殿の絵』で解消されます)

ちなみにオデュッセウスはことあるごとに「みな、頑張ろう」と励ますのですが、彼以外は全員、家に帰ることができませんでした。「結局、なんだったんでしょうね」と、その点にもA君は興味を持ったようでした。

A君は『オデュッセイア』を読み、面白かった点を『イーリアス』を踏まえながら話してくれました。

アキレウスは、『イーリアス』の22歌でヘクトルの命乞いを「恥知らずの犬めが」「死ね」と突っぱねています。その非情さには、あたかも人が蟻を踏み潰しても何とも思わないかのようです。ギリシャ文学では、神々と人間との線引きが明確であるように、英雄(半神:デミゴット)と人間とのそれもまた歴然としています。アキレウスはその具現化であるわけですが、「人間味に乏しいアキレウス」という印象をA君は持ったそうです。(「その分、ヘクトルを応援したくなります」と)

オデュッセウスはそのアキレウスにくらべると、もっと人間「寄り」の泥臭さがあります。キュクロープスの危機から名前を伏せてまんまと脱出したのに、最後の最後で名乗りをあげたり(9歌)、イタケにやっとのことでたどり着いて、変わり果てた祖国の様子に「ああ情けない、一体どういう人間の住む国へ来たのであろう」と嘆いたかと思うと、「ところで財宝の数を読み検分してみよう」(13歌)とお金の心配をしたり、A君はこういうところを好ましく思った、とのことでした。

また、A君はトロイア戦争以後の話にも興味があるとのことでした。私からは、ヘクトル亡き後のメムノンやペンテシレイアの活躍の書かれた『トロイア戦記』(クイントゥス、松田治訳、講談社学術文庫)を紹介しました。

『イーリアス』も『オデュッセイア』も読み、そして『アエネーイス』をこうして一緒に読んでいるA君。一つのテキストを読むために、その周辺のテキストにまで手を伸ばすことは、なかなかできることではありません。A君の熱意に頭が下がります。そのA君から私も、A君の読んだ歴史書についてのいろいろなことを教わっています。A君とはお互いに知らないことを循環させることができます。もしこう言って差し支えなければ、A君はよき友です。

一回一回が、まことに有難いです。

 

 

 

 

母親が

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