『西洋古典を読む』(中高生)クラス便り(2019年2月)

「山びこ通信」2018年度号より下記の記事を転載致します。

『西洋古典を読む』(中高生)

担当 福西亮馬

高官や名声を高めている人を羨んではいけない。彼らは自己の時間をたった一年のために空費する。これを目指した者の中には運命に見放された者もいるし、愚かさに気付き嘆いた者もいる。他人からの見返りのために努力し倒れてしまった者はきわめて見苦しい。

多忙のなかで死ぬのがどれだけいいだろうか。人は老年になりのけ者にされることを嘆く。人が暇を得るのは法から得るよりも難しいのである。誰一人として死を見つめないが、人生を終えた後の段取りを決めている。この人々は、葬式を豪華にしようとしているが、このような人の葬式は松明と蝋燭をともして行われるべきである。

これは『人生の短さについて』(セネカ、茂手木元蔵訳、岩波文庫)、第20章に対する受講生のIさんの要約です。Iさんは中学1年生です。

20186月から12月までの約半年間、11章ずつのペースで進み、『人生の短さについて』(同上)を読了しました。Iさん、おめでとうございます。

その91節に、「直ちに生きねばならぬ」(Protinus vive)という言葉があります。以下はそれをもとにしたフィクションです。

Xさんはテレビをつけた。世の中は〇〇ブームである。それでXさんは〇〇を始めた。なるほど興味深く、すぐのめり込んだ。けれどもある程度すると上達しなくなった。Xさんはつまらなくなり〇〇をやめてしまった。次に、Xさんは友人Pさんのブログを見た。△△のことが好きで、いつもそれを記事にしているPさん。Xさんの対抗心に火がついた。かつて中学の頃、自分が□□に夢中だった(それを受験勉強で中断していた)ことが思い出された。再び必要な物を買い直し、□□を始めた。これなら人にも自分にも誇れそうだ。けれども急に仕事が忙しくなってきた。Xさんはいつの間にか□□のことを忘れた。それから何年かのち、押入れに□□の物を目にした。言い知れぬ虚脱感に襲われた。ふと電話が鳴った。Qさんからだった。Qさんは悩みを聞いてくれた。そして、▽▽をしてみてはどうかと勧められた……。

このXとは、半分は私自身のことです。そのようなたらい回しを、セネカは175節で「惨めな生活の終りが求められるのではなく、始めが変わるだけ」(茂手木訳)と書いています。aから抜け出すためにbbから抜け出すためにcという「多忙」(occupatio)が人生を短くするのだと。そうではなくて、{a,b,c}集合そのものの出口を求めなければならないのだと。

セネカの使う「多忙」の反対語は、「暇」(otium)です。受講生のIさんは「暇」に「吟味」という解釈を与えました。自分のしたいことに「本当か? 傲慢か?」と反省できるだけの精神的な余裕のことであると。また他者の忠告に「サンキューか? ノーサンキューか?」とチェックできるだけのそれであると。

ところで、「人生」「暇」というキーワードから思い出される映画があります。「わしは人を憎んでなんかいられない。わしには、そんな暇はない」──これは映画『生きる』(黒澤明監督1952年)の台詞です。最近またそれを見返しました。そして『人生の短さについて』そっくりだと感じましたので、以下に紹介します。

「つまり、君はどうしてそんなに活気があるのか。全くその、活気がある。それがこのわしには羨ましい。わしは死ぬまでその、一日でもよい、そんなふうに生きて、生きて死にたい。それでなければ、とても死ねない。つまりおふくろ、わしは、何かほら、何かすることがある。何かをしたい。ところが、ところがそれがわからない。ただ、君はそれを知っている。いや知らんかもしれんが、現に君は……教えてくれ。どうしたら、君のように」

主人公は、長年無欠勤で役所に務める勘治という男。彼は自分が癌だと知り、あたかも、池でおぼれかけた子供(劇中で勘治はそれを回想しています)のように、生きがいという助けを求めます。その時、わらをも掴む思いで追い回した女性への問いが、上の引用です。

けれども女性は「ただ、働いて食べて……それだけよ」と答えます。彼女はおもちゃ作りを手がけています。「こんなものでも、作ってると楽しいわよ。これを作り始めてから、私、日本中の赤ん坊と仲良しになった気がするの」と言う彼女。もっと耳新しい理由を期待していた勘治は、絶望の淵に立たされます。「役所で一体、何が」と。まさにその時、90度の方向転換が生じます。人に言われてではなく、自分で気付いたのです。「やる気になれば」と。彼は立ち上がります。

勘治は、他人事で済ませた「どぶを埋めて公園を作ってほしい」という住民の要望書を、書類の山から引っ張り出します。呆れられ、無視され、脅かされても、反応せずに仕事をします。眼中にあるのは一つの事。それを成し遂げる姿は、見る者の胸を打ちます。

勘治がつぶやく「そんな暇はない」の暇とは、死を忘れた時間の受動的な内容{a,b,c}、多忙そのものです。セネカなら「そんな多忙の時間はない」と言い直すでしょうか。一方、勘治のとった行動とは、セネカの述べる暇そのものです。それは時間軸から縦に生きることであり、「今」において立ち上がること、それが「直ちに生きる」ということなのだと、私は解します。

現在、クラスでは次のテキストを、ウェルギリウスの『アエネーイス』を読んでいます。英雄叙事詩です。じっくり読んで損のない古典です。内容については次号のお伝えになりますが、セネカの『人生の短さについて』を読んだことと共鳴すると思います。

旅は始まったばかりです。ぜひ新しい中学生、高校生の参加者をお待ちしています。