ことば4年B(0921)

福西です。

この日は『おりゅうやなぎ』(おりゅうとやなぎ)という昔話を読みました。先週、『おかあさんの目』を読んだので、「おかあさん」つながりのお話を選びました。

 

(『おりゅうやなぎ』──『京都のむかしばなし2』京都の昔話刊行会・編より)

 

このお話は、三十三間堂の棟木の縁起物語となっています。(ちなみに善光寺の棟木というバリエーションもあります)。

 

あらすじは次の通りです。

 

1)むかし、丹波の国に平太郎という若いきこりがいて、平太郎の入っている山に、とても大きな柳の木が生えていた。平太郎がいつものように柳の木のそばで休んでいると、ある時、若い娘が姿をあらわした。娘は「おりゅう」という名であった。平太郎が嫁になってくれと頼むと、おりゅうは、「この柳の木を切らないと約束するなら」という。平太郎は承知し、二人は夫婦となる。やがて子ども(緑また緑太郎)が生まれる。

2)一方、都では三十三間堂を建立する計画があり、棟木にするための長い材を必要としていた。そこで平太郎の柳の木がふさわしいということになった。平太郎は「みんなのためだ」と説得され、柳の木を切ることになる。するとおりゅうは「緑の行く末をたのみます」と言い残して、姿を消す。

3)柳の木は切り倒され、運ばれることとなったが、しかし何人かかっても、びくともしない。女の髪の毛を束ねた綱でも、ぴくりともしない。そこで、平太郎が赤ん坊の緑をつれてきて、柳の木に触れさせた。すると、不思議なことに、柳の木は動き出した。こうして三十三間堂が無事建てられた。

 

さて、この昔話には、別の言い伝えが存在します。上の話は5分で読めるほど短かったのですが、今度はその倍ぐらいの長さがある(それでも10分ぐらいですけど^^)バリエーションです。それを続けて読んでもらいました。

 

(『おりゅうとやなぎ』──『ふるさとの民話19』世界文化社より)

 

そのあと、この二つのお話の「違い」を、一人ずつ順番に挙げてもらいました。皮切りに答える人にはプレッシャーがあったようですが、一人が答え出すと、あとに続く人は、「これもそうやった」「あれもあった」と、芋づる式に答えてくれるのが楽しかったです。

 

1)最初の話は、おりゅうは女だったけれど、二つ目はおりゅうは男だった。

2)二つ目の話だけ、へくそかずらが出てくる。

3)最初の話だけ、子どもが出てくる。

4)最初の話は、柳の木を手で引いていたけれど、二つ目は荷車に乗せていた。

5)最初の話は、木がすぐに倒れたけれど、二つ目ではなかなか倒れない。

6)最初の話は、赤ん坊が触って動いたけれど、二つ目は女の人の姿を見て(男である柳の木が)動く。

 

と。このようによく覚えていてくれました。

 

さて、せっかくなので、次は共通点も挙げてもらいました。

 

1)三十三間堂が出てくる。

2)柳の木が出てくる。

3)柳の木が切られるのは、三十三間堂を建てるため。

4)男の人と女の人が出てくる。

5)切られたあとの柳の木は、最初びくともしない。

6)柳の木はすごく大きい。

 

などなど。

 

さて、上で生徒たちが挙げてくれたように、今回紹介した二つのお話では、男女の役割が入れ替わっています。私の方から少し補足しておきますと、最初の「おりゅうやなぎ」では、おりゅう=やなぎでしたが、二つ目の「おりゅうやなぎ」では、おりゅうに恋をする存在が、柳の精(男)となっています。そして後の方は純粋に若い男女の恋物語であり、子どもが登場せず、母親というモチーフもありません。

 

また、柳の木が切り倒された原因も異なります。

 

最初の話では、平太郎が約束を破ったから(自分の都合よりも公の利益を優先したから)でしたが、二つ目では、少し事情が異なっています。それは「なかなか切り倒されない」こととも関係しています。

 

つまり二つ目の話では、山の植物たちが夜中に柳の木の「お見舞い」に来てくれるという独特のモチーフが挿入され、切られた部分に木屑を埋めると、傷口が元通りになります。しかしお見舞い仲間からはずされたへくそかずらの「ねたみによる告げ口」で、柳の木は切り屑を燃やされ、とうとう切り倒されてしまいます。

 

そして、「一方が約束を破ったことで別れる」のではなく、「まもなく私は切り倒されるから、もうここに会いに来てはいけない」という恋人からの禁止という流れになります。またさらに、その禁止を破って、女が切り倒された柳の木に会いに行くことで、それまでびくともしなかった柳の木が動いたというのが、後の展開です。

 

さて、この昔話は、私がとても好きな話なのですが、ぜひともみんなに質問したかったことが、一つあります。それは、「三十三間堂を建てることがみんなのためになる、とありましたが、それはどういう(どのような重みがある)ことなのでしょうか?」と。

 

その質問に対して、案の定、生徒たちは首を傾げていました。しばらくしてから、一人がぽつりと、

「お寺(にみんながお参りできて、それがいいこと)だから?」

と意見を言ってくれました。それを聞いた私は、なるほど、とうなずきました。その一方で、生徒たちが大人になり、「公の幸せ」と「自分の子ども(や家族)の幸せ」との間に、いつかジレンマを感じるような時が来るだろうことを、ふと連想しました。その時にもし同じことをたずねたら、どんな言葉が返ってくるのかな…とも。

 

残りの時間は、以前リクエストのあった、漢字の神経衰弱をしました。