福西です。

『人生の短さについて』(セネカ、茂手木元蔵訳、岩波文庫)の19章を読みました。

生徒のA君の要約です。

君は穀物の管理と神聖なる使命が同じであると考えるのか。君は神秘に満ちた諸問題について心を向けたいのではないか。君は元気なうちに良い方向へと進まなければならない。深い安静の生活が君を待っている。多忙な者は惨めで、自分自身の自由を失っている。彼らが自分の人生が短いことを知れば自分だけの生活がいかに小さいかを知るだろう。

読みながら、「元気なうちに」ということを実感しました。

要約の最後にある「自分だけの生活がいかに小さいか」というのは、多忙に多くの時間を費やし、その残りとして、「これが自分の人生だ」と呼べる部分がいかに少ないか、という意味です。

 

セネカは、多忙から抜け出して、ただ暇人になれ、と勧めているのではありません。『倫理書簡集』第82書簡の3節で、次のように書いています。

学問のない暇は、死であり(otium sine litteris mors est)、

そして生きた人間の墓(である)(et hominis vivi sepultura)。」

と。

哲学をして、じゃあどうなるんだ、ということを、セネカは『倫理書簡集』で力説しています。

「精神(過不足なき自分自身の権利)を守り抜くことができる」と。

「敵は、フォルトゥーナ(運の女神)(に心を奪われること)」です。

第82書簡の5節から、原文を直訳して紹介します。

「哲学の砦を築け」

82.5  Philosophia circumdanda est, inexpugnabilis murus,
quem fortuna multis machinis lacessitum non transit.
In insuperabili loco stat animus
qui externa deseruit et arce se sua vindicat;
infra illum omne telum cadit.
Non habet, ut putamus, fortuna longas manus:
neminem occupat nisi haerentem sibi.
82.6  Itaque quantum possumus ab illa resiliamus;
quod sola praestabit sui naturaeque cognitio.

82.5
哲学が(philosophia)巡らされるべき(circumdanda)である(est)、攻め落とせない(inexpugnabilis)壁が(murus)。多くの機械で(multis machinis)攻撃された(lacessitum)その壁を(quem)運(フォルトゥーナ)は(fortuna)越えない(non transit)。
(フォルトゥーナがどんな攻撃をしてこようとも、中に入らせないような、哲学の壁が築かれるべきである)

征服できない(insuperabili)場所(loco)の上に(中に)(in)、外部にあるものを(externa)捨てた(deseruit)ところの(qui)精神が(animus)立つ(stat)。そして(et)自分の(se)砦で(arce)自分を(se)自由の身にしている(vindicat)。その壁(illum)の下で(infra)すべての(omne)飛び道具が(telum)落ちる(cadit)。

我々が思う(putamus)ほど(ut)、運は(fortuna)長い(longas)手を(manus)持たない(non habet)。(運は)自分に(=運に)(sibi)しがみつく者(haerentem)を除けば(nisi)、誰一人(neminem)占領(多忙に)(occupat)しない。

82.6
そういうわけで(itaque)、できるかぎり(quantum possumus)運(illa)から(ab)我々は後ろに飛びのこう(resiliamus)。そのことを(quod)自分(sui)と自然(事物)についての(naturaeque)認識(cognitio)だけが(solo)行うだろう(praestabit)。

何が普遍的で、何が一時的か。その認識(哲学)が、運の「一喜一憂」という攻撃から、自分だけのもの(精神の純粋さ)を守り抜く砦だ、というわけです。

82書簡は『倫理書簡集』のちょうど分量的な真ん中に当たります。

そして『倫理書簡集』の最初と最後は、次のように書かれています。(訳は『セネカ哲学全集5・6』岩波書店より)

1.1
わがルーキーリウスよ、君がなすべきことを言おう。それは君自身の権利を護ること

(高橋宏幸訳)

122.24
君は望まないかね、自分とは異質なことに努力するかぎり、どうしても勝ちめのないことは捨て去って、君自身の善に立ち戻ることを。その善とは何か。(…中略)自己の外なる何ものをも自己のものとは考えない魂だ。君は理性的な動物だ。それなら、君の中の善とはどのようなものか。完全な理性だ。これを君は今ここからそれ自身の究極へと呼び起こしたまえ。そして、可能なかぎり大きく成長するに(任せたまえ)。君自身を幸福だと判断したまえ、君自身の中から君の喜びの何もかもが生まれ出る時にこそ。人々が奪い、願い、後生大事にしているものを目にしたあとでも、君が他のものよりは欲しいものというのではなく、単純に欲しいと思うものを何一つ見いだせなかった時にこそ。(中略…)君が君自身のすべてを獲得するのは、こう理解できた時だ、幸いにまったく恵まれぬ人も恵まれた人と違いはない、と。

(大芝芳弘訳)

「君は理性的な動物だ」という言葉を、私は純粋な励ましだと受け取りました。

そして、熱くなりました。

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