西洋古典を読む(2018/11/28)

福西です。

『人生の短さについて』(セネカ、茂手木元蔵訳、岩波文庫)の16章を読みました。

生徒のA君の要約です。

過去を忘れ現在を軽んじ未来を恐れる者の人生は短く不安である。

死に至った時に多忙であることを知っても時は遅い。

彼らが何を思おうが彼らが人生を長く生きている証拠にはならない。彼らは暇の中にあるといらいらするうえ、暇であっても使い方を知らない。別の多忙を求め娯楽の開催まで日を飛び越えたいと思うまでである。ある一つの欲望に終始することはない。彼らには一日一日が厭わしい。

詩人たちが神々を悪徳の張本人にし神にのみ許される自由を人間の欲望に利用する。

彼らはある時間を待ち焦がれ、その時間までを失う。楽しい時間が終わるのを恐れてその時間さえも失う。

楽しい境遇にある時間を短く感じることは、われわれのよく体験することです。もしそれが長続きすれば、われわれは「ラッキー」だと感じます。しかしラッキーな時間に心を動かされすぎると、それ以外があたかも「アンラッキー」に思われてしまいます。もしかしたらその時間は、ほかのことが楽しめたかもしれないにもかかわらず。

剣闘士の観戦に熱中するあまり、その開催日以外の日を退屈に過ごしてしまう例を、セネカは挙げています。(これを現代に置きかえると、競馬の「~賞」で一喜一憂した後、テレビですぐに来週の「~賞」の宣伝がされ、ソワソワするような感覚でしょうか?)。

セネカ的には、楽しむ時間は「今」をおいて他にありません。その今を無視し、未来や過去の他の時間において楽しみを得よう、得続けようとすることが、セネカの目からすれば、「元も子もない」「多忙」だと映るわけです。