西洋古典を読む(2018/6/27)

福西です。

セネカ『人生の短さについて』(茂手木元蔵訳、岩波文庫)の3章を読みました。

以下の箇所が、指示代名詞があいまいで難解でした。

「かつて光り輝いた天才のすべては、この一つの主題について意見を同じくしている。にもかかわらず彼らでも、このような人の心の闇には、どんなに驚いても飽き足らないであろう。」(3.1)

そのあとの文章は、「自分の土地に侵入されて黙っている者はいないのに、自分の時間に侵入されても無自覚である」と続きます。A君と議論し、「彼ら」というのは、ここでは天才(前章のアリストテレスら)のことを受け、「このような人」というのは、一般人のことだろうとなりました。

また、「私有財産を取られること」をXとし、「時間を取られること」をYとしたとき、セネカのスタンスを次のように解釈しました。

Xについて怒ることは心の闇にあたらない。それは賢者(光り輝いた天才の仲間)であろうと一般人であろうと。Yについて無自覚なことが心の闇。それに自覚的であるのが賢者で、そうでないのが一般人。

さて、セネカは、過ぎ去った時間を振り返ってみよ、その中にどれだけ自分の時間(「人生は長い」と感じられる時間)があったか、とたずねます。ここで4回繰り返される「いつ」にはハッとなりました。

「いつあなたは自分の計画に自信を持ったか」(3.3)
「いつ自分を自由に使うことができたか」(3.3)
「いつ顔付きが平然として動じなかったか」(3.3)
「いつ心が泰然自若としていたか」(3.3)

しかし、もし本当に、見知らぬ老人に面と向かって口に出して言ったとしたら、「セネカはかなり失礼な人」というのが、A君の率直な感想でした。

そのパロディとして、エンデ『モモ』を参照しました。時間泥棒が用いる詐欺の語法として使われていました。

 

セネカは、お金に関してはケチでないことが美徳でも、時間に関してはその逆が美徳であると書いています。

そこから話が広がって、A君はティベリウス、クラウディウス、カリグラの三代の皇帝について、知っていることを話してくれました。一代目で拡大し、二代目で維持し、三代目で食いつぶす例としてです。

そのほかにも、イギリス、フランス、ドイツ、トルコと、国と時代を変えて、いくつも例を挙げてくれました。

また有能なのに一般市民にケチだったがために不人気だった皇帝や、その逆に(セネカがコケにするところの)クラウディウス帝は、実は市民にはお金をよく落としたので、人気が高かったと教えてくれました。私も勉強になりました。

 

3.3に「心が泰然自若として」とあります。これは、animus intrepidus(アニムス・イントレピドゥス)の訳です。trepidoがぶるぶるふるえるという動詞です。その形容詞形で、inという否定辞がついて「不動の」となります。直訳は「不動の精神が」です。

この単語から、アタラクシア(心がかき乱されないこと)を精神的な最高の快楽として追及する、エピクロス派の価値観について触れました。

 

以下は、私のメモです。

【要約】

土地や財産に関しては、少しでも他者の侵犯を許さない人が、こと自分の時間に関してはそれを許している。過ぎ去った時間を試算せよ。自分が責任をもって生きたと言える時間がどれだけあったか? 長生きするという保証はない。それなのに人生が終わりに近づいてから有益な計画を始める人がほとんどである。なんと自然の理に逆らったことか。

【心に残ったフレーズ】

「永久に生きられるかのように生きている」(3.4)
「今にも死ぬかのようにすべてを恐怖するが、いつまでも死なないかのようにすべてを熱望する」(3.4)
「生きることを止める土壇場になって、生きることを始めるのでは、時すでに遅し、ではないか」(3.5)