『フランス語講読』A・Bクラス便り(2018年2月)

「山びこ通信」2017年度冬学期号より下記の記事を転載致します。

『フランス語講読』A・B

担当 渡辺 洋平

 フランス語講読Aの授業は、今学期もアンリ・ベルクソンの『物質と記憶』を読み進めています。順調なペースで進んでおり、現在は第2章の終盤に差し掛かっているところです。前回の山びこ通信では、ベルクソンによるふたつの記憶の区別について書きました。ひとつは身体の内に習慣として形成される記憶、もうひとつは人生における一回限りの出来事として保持される記憶です。ベルクソンはここから、二種類の「再認」を区別していくことになります。
 「再認」とはやや堅苦しい訳語ですが、私たちがつねに行っている活動でもあります。例えば、ある人に再会するならばその人を「再認」するわけですし、目の前の物体が「机」であると分かるのは、すでに持っている「机」という言葉の記憶を用いて目の前の物体を理解することですから、これもやはり「再認」なのです。ベルクソンは、現在の知覚と過去の記憶が協働することでおこなわれる認識行為全般を「再認」と呼んでいるのです。
 さて、再認のひとつめのタイプは、よく知っている町を歩くときのように、まったく意識せずとも体が自動的に動くような場合です。ベルクソンはこのような再認を「瞬間的再認」、「機械的再認」、「自動的再認」などと呼んでいますが、これは、いわば精神の作用を介することなく身体のみによって可能となっている再認であると言えます。
 それに対し、もうひとつの再認は、一回限りの記憶、各自の「思い出イメージimage-souvenir」がつねに作用しているようなタイプの再認です。自動的再認がやや極端な事例であったのに対し、こちらはより日常的に行われている類のものです。ベルクソンは、他人の話を聞き、理解するという例を考察しています。机の例と同じように、他者の話を聞き、それを理解するためには言葉に関する記憶が介入していなくてはなりません。したがって、他人の話を理解するということは、相手が発する言葉を、みずからの記憶と照合しながら解釈することに他ならないのです。このように、私たちは、日常生活においても、つねに知覚と記憶を混ぜ合わせながら活動していると言うことができます。
 このように、通常混合状態において存在している知覚と記憶のあいだに区別を導入すること、両者のあいだに本性の差異を見定めることこそ、『物質と記憶』におけるベルクソンの大きな独創性であると言えます。そして、知覚がつねに現在という時間においてなされるのに対し、記憶は過ぎ去った過去にかかわるものですから、ベルクソンは現在と過去というふたつの時間を全く異なるものとしてとらえていることになります。
 さて、それでは知覚と記憶、現在と過去は一体どのように関係しているのでしょうか。これこそが『物質と記憶』が探求する主要なテーマのひとつであり、とりわけ第3章の主題となるものなのです。

 フランス語講読Bのクラスは現在、昨年度の秋学期から読んできたベルクソンの「形而上学入門」の最終盤に差し掛かっています。この論文にはベルクソン哲学のエッセンスが詰まっているとも言われ、それはもちろんその通りなのですが、その分抽象的な議論も多く、つかみ所が難しかったかもしれません。それでも粘り強く読み続けてきてくれた受講生の方々に感謝の念を捧げたいと思います。今学期中に読了し、4月からは新しく、アンドレ・ジッド(André Gide 1869-1951)の『田園交響曲La symphonie pastorale』を読み始める予定です。『田園交響曲』は分量もさほど長くなく、文章も初級文法を一通り習得していれば読み進めることができると思います。興味がおありの方は是非一度お問い合わせ下さい。
 さて、ベルクソンは、「形而上学入門」の最後でみずからの考える形而上学の大綱を記しています。それによれば、私たちには、精神に直接与えられた実在がひとつあります。それが「動き」です。ベルクソンが考える実在とは絶えまない動きであり、私たちが通常とらえている「物」は、このたえまない動きを外見的、ないし相対的に停止した姿に他なりません。私たちはたえまない動きである実在を固定し、停止させることで表象し、さまざまに利用しているのです。このように動きを固定することは、やがて『創造的進化』において、生命進化の過程で得られた人間の知性に本質的な働きだとされますが、形而上学はこの傾向に逆らい、動きそのものを捉えようとする試みとして論じられています。そしてそのために形而上学が用いる方法が「直観」なのです。
 とはいえ、「形而上学入門」においては、この直観が意味するところは必ずしも明確ではありません。この辺りはベルクソンの他の著作や論文によって論点を補完する必要があるでしょうが、少なくとも「形而上学入門」が主張しているのは、直観がデカルトの論じた「分析」と「総合」とは異なる認識の方法であること、プラトンのイデア論であれ、カントの批判哲学であれ、従来の哲学・形而上学が実在を外からとらえていたのに対し、直観の哲学は実在と内的に共感するということです。ただしこれは何か神秘的な行為ではなく、実証的なデータにもとづいてなされるものであることも注意すべきでしょう。多くの観察と経験を集め、問題の中心へと身をゆだねることが必要なのです。『物質と記憶』においても、『創造的進化』においても、ベルクソンは当時の科学の論文を渉猟し、綿密に検討した上で自説を展開していきました。このようなベルクソン自身の著作を、形而上学的直観による哲学の実例とみなすことができるでしょう。この意味でも、ベルクソンはやはり直観の哲学者なのです。
 なお、前号の山びこ通信で、「形而上学入門」を「講演を元にした論文」と書きましたが、これは誤りでした。「形而上学入門」は、1903年に『形而上学道徳雑誌』に掲載されたのが初出です。ここに訂正して、お詫び申し上げます。