福西です。本年もよろしくお願いいたします。

セネカ『人生の短さについて』の17章を読み終えました。

前回は、将来に対する取り越し苦労、得たものを維持しようとして払い続ける膨大な労苦について、ペルシャ王の例を通じて見ましたが、今回は、希望、名誉、野心、その他自分と向き合わずして他人のお節介をし続けることなど、不自然な時間の使い方、つまり「怠惰な多忙」に対する反省が書かれていました。

印象に残った箇所として一つ、17.5を挙げます。

われわれは公職立候補の苦労を思い留まったことがあろうか。思い留まったとしても、お次ぎは他人の立候補の応援を始める。われわれは人を告訴する骨折りを捨てたことがあるか。捨てたとしても、今度は裁判する骨折りを手に入れる。裁判官を止めた者があるか。止めたとしても、次には予審判事になる。他人の財産の管理に雇われて老い込んでしまった者があるではないか。今度は自分の資産に悩まされる。(茂手木元蔵訳、岩波文庫)

ドキッとする表現だと思いました。

そして、こう直言します。(原文は後で示します)

They do not look for an end to their misery, but simply change the reason for it.

──Seneca On the Shortness of Life(C. D. N. Costa訳、Penguin Great Ideas、2005)

これは例のごとくnot butの構文です。日本語訳では次のようにありました。

「惨めな生活の終わりが求められるのではなく、始めが変わるだけである。」(茂手木元蔵訳、岩波文庫)

「不幸の連鎖を断ち切る終わりが求められるのではなく、始まりが変わるだけなのである。」(大西英文訳、岩波文庫)

「彼らは、悲惨な生活を終わらせる努力などしない。たんに、悲惨の中身が移り変わっていくだけだ。」(中澤務訳、光文社)

「彼らが哀れな生き方に終止符を打ちはしないのです。その生き方をつづける言い訳を変えるだけです。」(杉浦計子訳、PHP)

そして原文です。

Miseriarum non finis quaeritur, sed materia mutatur.(17.5)

直訳は、

「哀れなことごとの(miseriarum)終わりが(finis)求められる(quaeritur)のではなくてむしろ(non sed)マテリアが(materia)変えられる(mutatur)のだ。」

となります。

上の英訳・日本語訳では、それぞれ「中身」「始まり」「理由(言い訳)」とありますが、原文はマテリアなので、「中身」が直訳に一番近く、他の二つはそこから出てくる意訳なのだとわかります。

また、注釈書を見てみると、「ここはエピクロスの言葉に影響された可能性がある。『倫理書簡集(ラエリウスへの手紙)』17.11 ‘multis parasse divitias non finis miseriarum fuit sed mutatio’またはエピクーロス『断片』479を見よ」とありました。

以下、『倫理書簡集』17.11-12から引用します。

Quid istic? ab Epicuro mutuum sumam: ‘multis parasse divitias non finis miseriarum fuit sed mutatio.

何にしようか。エピクーロスから拝借することにしよう。「多くの人にとって富を築いても不幸は終わらず、変化しただけだった」

Nec hoc miror; non est enim in rebus vitium sed in ipso animo. Illud quod paupertatem nobis gravem fecerat et divitias graves fecit. Quemadmodum nihil refert utrum aegrum in ligneo lecto an in aureo colloces – quocumque illum transtuleris, morbum secum suum transferet -, sic nihil refert utrum aeger animus in divitiis an in paupertate ponatur: malum illum suum sequitur.

これは不思議なことではない。実際、疵は物ではなく、他ならぬ心の中にある。貧乏を私たちの重荷としていたものが、富をも重荷としただけだ。病人を寝かせるベッドは、木製でも黄金製でも違いはない。どこへ病人を移しても、病気も病人と一緒にそこへ移るだろう。それと同様に、病んだ魂の置き場所は富の中でも貧乏の中でも違いはない。病苦はあとをついてくる。

(訳は『セネカ哲学全集5 倫理書簡集Ⅰ』(高橋宏幸訳、岩波書店)より。強調は引用者)

ここではお金持ちが例にとられています。貧乏な時は「ああ、お金があればこんな苦労、すぐに抜け出せるのになあ!」と嘆き、いざお金持ちになったらなったで、お金持ちとしての苦労が発生し、結局、金銭欲がある限り「苦労する中身」が変わっただけ、というわけです。

そこから意味を取り直すと、「抜け出す心がけ」の対極に「マテリアが変わること」という表現があるのだろうと考えました。

みじめな出来事(miseria)を終えるためではなくて、そのみじめさの内容物をとっかえひっかえすること。その都度、新しい苦労を始める別の理由をどこかから見つけてくること。つまり「きりがない」ということ。

これはたとえると、つい惰性で見てしまうテレビ番組の一つの連載が終わるや否や、「新番組」の予告が来るようなものでしょうか。(賭け事が好きな人にとっては、「~記念」の次はすぐに「~記念」が来るようなことでしょうか)。「見ない」「しない」という選択肢を持たない限りは、内容が変わるだけだ、というセネカ(エピクロス)の指摘に、ドキッとなりました。

 

次回は18章を読みます。「静かな港」(a peaceful harbour/tranquillus portus)という表現が出てきます。

 

 

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