『西洋古典を読む』クラス便り(2017年11月)

「山びこ通信」2017年度秋学期号より下記の記事を転載致します。

『西洋古典を読む』

担当 福西 亮馬

 このクラスでは、セネカの『人生の短さについて』(De brevitate vitae)を英訳で読んでいます。テキストは、『Seneca On the Shortness of Life』(C. D. N. Costa訳、Penguin Great Ideas、2005)です。春学期は和訳を読むだけでしたが、そこに英訳(を和訳する作業)が加わりました。ペースは半分になりました。それをもちろん善いこととして、思い出にしてもらえたらと願っています。
 加えて、岩波文庫の茂手木元蔵訳、大西英文訳、光文社の中澤務訳、PHPの杉浦計子訳も比較参照しています。和訳が豊富に出ていることは、道案内として、本当に心強いです。そして注釈を見て、もっと詳しく知りたくなった箇所では、ラテン語の原文に食指を伸ばしています。時々、生徒のAikaさん自身にも、単語レベルで辞書引きに挑戦し
てもらっています。

 さて、秋学期は、全20章のちょうど折り返し地点にあたる、11章から読んでいます。「こういう連中の暇は、暇ではない」「怠惰な多忙だ」「病気だ」といった記述が続きます。そして英訳のテキストでは、leisureとpreoccupiedという単語が頻出します。「暇」と「多忙な(人)」です。原文ではそれぞれotium(オーティウム)とoccupatus(オックパートゥス)が対応します。後者はoccupo(掴む)から作られた形容詞で、掴まれた、常に何かで心を占領された状態のことです。
 セネカの言う「暇」とは、自分のために自覚的に使用した時間のことであって、その蓄積が人生を「完成」させ「長い」と感じさせるところの「現在」です。だから能動的で充実したものです。
 一方、これに対抗するものが「多忙」です。自分の時間を「未来と他人」に預け、「とらぬ狸の皮算用」に忙しい状態を指します。
 12章3節で、次のようなパンチのある表現に出会いました。国の乱れよりも、頭のセットの乱れを心配する人についてです。
 Do you call those men leisured who divide their time between the comb and the mirror?(C. D. N. Costa訳)
 原文も見ておきます。
 hos tu otiosos vocas inter pectinem speculumque occupatos?
 直訳すると、「櫛(pectinem)と(que)鏡(speculum)の間で(inter)忙しい(occupatos)この者たちを(hos)、暇な人たち(otiosos)だと、君は(tu)呼ぶのか(vocas)?」となります。もちろん反語的表現です。上の英訳では、occupatosの部分を、divide their timeとしているのが見てとれます。
 あるいは、とセネカは続けます。物まね役者(mimus)が風刺するような贅沢で、基本的生活習慣さえも誰かに依存してしまい、自分が現在何をしているのかさえ把握できないような便利さに染まった人々。その彼らが、死ぬ直前まで無自覚である、受動的な「繰り返し」。それを「怠惰な多忙」と呼んでいます。そして、「自分の体の有様を知るのに他人に教えてもらう必要のあるような人間が、一体どうして時間の主人となりうるであろうか」(茂手木元蔵訳、岩波文庫、12.9)と、セネカは断じています。それを受けて、Aikaさんは、「スマホのアプリに自分を管理してもらうようなことですね」と言いました。なるほど確かに、時代が変わっても人間はそれほど変わらないのだなと私も気づかされました。