ウェルギリウスを読む

山下です。
金曜日のクラスではウェルギリウスの『農耕詩』を読んでいます。昨日は、1.171-186 を読みました。

個人的に、possum multa tibi veterum praecepta referre,/ni refugis tenuisque piget cognoscere curas. (176-7)が気になりました。キーワードがちりばめられていると感じたからです。

praecepta は、「アリスタエウス物語」の中で 398 dabit praecepta および、448 deum praecepta, 548 matris praecepta として出てきます。

ni 以下の表現は、ルクレーティウスの立場を想起させると思います。日本語に直すとそれに気づかないわけですが。

curas は「世話」という意味で使われていますが、「苦悩」の意味を持ちます。

curas を知ることに背を向け(refugis)、いとわしく思う(piget)態度。curas の原因を cognoscere する意義を語ったのがルクレーティウス。一方、言葉の配置だけに目を向けると、curas に背を向ける(refugis…curas)という表現(キケローが『友情について』の中で、エピクーロス派を批判する表現を想起させます)を思わせます。

一方、ウェルギリウスがルクレーティウスの哲学的立場を称えているのが、第二巻エピローグの次の表現です。

felix qui potuit rerum cognoscere causas,
atque metus omnis et inexorabile fatum
subiecit pedibus strepitumque Acherontis avari:
(事物の根源的理由を理解し、すべての恐怖と祈りを聞き届けない運命、貪欲なアケローンの喧噪とを足下に踏みしくことのできた者は幸いである)

cognoscere は、哲学の世界で用いるに相応しい用語ですが、それを今回読んだところでは、「農夫の些細な手間の内容を『知る』ことに背を向けず、それをいとわないなら、あなたに祖先から伝わる数多くの「教え」を語ることができる」と言っています。

「教え」(curas の causas を伝える教え=ルクレーティウスの DRN の内容も praeceptaにほかならない)を知ることが不安(curas)を追放する上で有効、というモチーフは、例のアリスタエウス物語で繰り返し出てきます。

オルペウスの怒りの原因についてプローテウスがアリスタエウスに語った後、母キュレネーは次のように言います(4.531-2)。

nate, licet tristis animo deponere curas.
haec omnis morbi causa,…
(息子よ、あなたは心から悲しい苦悩を追い払うことができるでしょう。
これが(ミツバチたちの)病気の原因のすべてです。)

続いて母はオルペウスの霊を慰める手順を説明し、これをアリスタエウスはただちに実行に移します。continuo matris praecepta fecessit.(548)

なるほど、アリスタエウスの悲しみはミツバチの群れの再生によって追い払うことができたかもしれません。

しかし、オルペウスの悲しみはどうでしょうか?

妻を失って地上に出た彼について、nulla Venus, non ulli animum flexere hymenaei.(4.516) (いかなる愛も、いかなる結婚もその心を和らげることはなかった)(※内容として正しくは「愛や結婚の可能性」も訳した方がよい)

この一行は意味深長です。というのは、この表現はエピクーロス派の「心の平静」を言い表していると解釈できるからです。

エピクーロス派の詩人として、ルクレーティウスは、心の平静を守るために、愛から自身を遠ざけるべきことを教えています。

詳しく見ていくときりがないのですが、要するに、従来その意義をじゅうぶん理解されず、「なぜここにこのような話が?」と思われるのが常であった「アリスタエウス物語」について、今示唆したように、作品の先行箇所と何らかのつながりがある(このエピローグをクライマックスとしてみなせるだけの伏線を引いてある)ということに気づくべきだと思います。

そのとき、作品の初めからルクレーティウスの詩的表現、思想をふまえた上で、独自の見解を示そうとするウェルギリウスの心意気を読み取ることができ、それが最後のオルペウスとアリスタエウスのエピソードの中にも、パロディの形で取り込まれていると解釈できる点に興味を覚えます。