『西洋古典を読む』クラス便り(2017年6月)

「山びこ通信」2017年度春学期号より下記の記事を転載致します。

『西洋古典を読む』(新クラス)

担当 担当 福西 亮馬

 毎日毎日を最後の一日と決める(人、このような人は明日を望むこともないし恐れることもない)。
──『人生の短さについて』7章9節(セネカ、茂手木元蔵訳、岩波文庫)

 この講読クラスでは、『人生の短さについて』(セネカ、茂手木元蔵訳、岩波文庫)を1章ずつ、2ページずつのペースで読んでいます。高校生のAさんとマンツーマンです。日本語訳のテキストを読んで、生徒からそのつど質問してもらい、巻末の訳註や他の複数の翻訳、原文ともしばしば突き合わせながら内容を確認しています。たとえば上のフレーズの直訳は、すべての(omnes)一日を(dies)あたかも(tanquam)最後のものとして(ultimum)配置する(ordinat)、となります。ordinatはordo(順序・秩序・オーダー)という単語からなる動詞で、(順番通りに)整理する、(全体とのバランスを)調整する、アレンジするという意味です。
セネカは、「人生の短さ」についての読者のイメージを冒頭から裏切ります。「人生は十分に長く、その全体が有効に費やされるならば、最も偉大なことをも完成できるほど豊富に与えられている」(茂手木訳)と。その処方箋が「毎日毎日を最後の一日と決める」ことです。セネカは、人生とは「現在」として活用された時間の総和のことであり、「未来」の時間のために現在のそれを無駄遣いすること、そのことが人生を短くするのだと断じます。ちょうどエンデ『モモ』に出てくる道路掃除夫ベッポのようです。

「いちどに道路ぜんぶのことを考えてはいかん、わかるかな? つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸(いき)のことだけ、つぎのひとはきのことだけを考えるんだ。(…中略)ひょっと気がついたときには、一歩一歩すすんできた道路がぜんぶ終わっとる。」
──『モモ』4章(エンデ、大島かおり訳、岩波書店)

 セネカはまた『倫理書簡集』71章3節で、「どの港を目指すか知らない者には、どんな風も順風にはならない」(『セネカ哲学全集5』高橋宏幸訳、岩波書店)とも書いています。この港とは文脈では「人生全体の目標」のことを指します。Aさんはそこではたと矛盾を覚えました。セネカは同じことを言っているのか、それとも違うことを言っているのかと。つまりこういうわけです。「一日という視野で人生全体の設計が可能なのか」と。確かに一日では目先のことに刹那的になる恐れがあります。セネカはあれだけ快楽主義に反対しておきながら、まさにそのことで快楽主義に陥るようなことを主張しているのでしょうか。はてさてこの違和感、どうしたものでしょうか? 実際、この疑問こそがクラスの現時点での到達地点であり、今後何度も戻るベースキャンプになるだろうと思います。
 実はセネカは「全体に部分を一致させる」という視点を持っています。このクラスで未知なのはその「位置づけ」の視点です。そしてセネカは「人生全体の目標」をストア派の「最高善」に置いています。それなので最初の問いは、「その日を最後と思うことで、人生全体の目標という視野は手に入るのか」かつ「人生全体という視野で一日の設計が可能か」と問い直す必要があるのでしょう。これは私の解釈でしかないのですが、仮にめいめいが人生というジグソーパズルで完成の絵柄を思い描いている様子をイメージしてみます。そこにもしセネカがいたらこう言うのではないでしょうか。「一日という一個のピースを手に持ったら、その都度、確定させていくことだ。隣人であれお互いのピースがうっかり混ざらないように気をつけよ。なぜならその箱の絵柄は一人ずつのものだから」と。
 そこで問題があります。最高善とは何なのかということです。果たしてそれが人生の途中から分かるようなものなのでしょうか。私には分かりません。だから港のない船同様、私もまた矛盾の海の中に放り出された状態です。そして矛盾こそが人生そのもののようにさえ思われ、現実問題としてはたと立ち止まってしまいます。だから古典への再接近が促されるのかもしれません。

講読の内容
1) 要約(予習)の公表
2) テキスト(日本語訳)の音読
3) 線引き、抜き書き
4) 原文の確認
5) 他の翻訳、註の参照
6) 時代背景、引用の出典調べ
7) テキストについての意見交換
8) その他の意見交換

 さて、クラスでは左の表のようなことをしています。80分では1章ずつ進んでも足りないぐらいです。もし仮に2章分進めたとしても、そうしないことには十分なメリットがあると考えています。他の本が読めなくなることは確かにデメリットですが、あくまで一冊に限って言えば、それと関わった時間を「長く」できます。実際、記憶への定着率が上がりますし、印象的なフレーズ、テキストの部分部分を想起する回数が増えます。するとだんだんテキスト全体が生の新鮮なものに感じられてきます。またAさんは打てば響くように質問を返してくれるので、話題が次々と膨らみます。セネカの死に方、帝政ローマという歴史的背景、ストア派とエピクーロス派の基本的な考え方、キケローの『国家について』、またプラトーンやアリストテレース、デカルトの『方法序説』、哲学と倫理学との差異、などなど。
 このあとも引き続き、「今直ちに生きなければならぬ」という言葉や、「幸うすき人間どもにとって、まさに生涯の最良の日は、真っ先に逃げていく」というウェルギリウスからの引用(ともに茂手木訳、9章)が出てきます。セネカは一体どのような意図をもって、こうした同じとも取れる内容を繰り返し書いているのでしょうか。一緒にこのなかばミステリーを味わってみませんか。中学生・高校生の奮ってのご参加をお待ちしています。