“O tempora, o mores!”「何と言う時代、何たる人の道か」―西洋で最も有名な歎きの言葉とも言うべきこの句が、今学期からこのクラスで取り組んでいるキケローの『カティリーナ弾劾』には収められています。受講生はこの講読クラス開講以来継続受講下さっているお二方です。その内の A さんは、残念ながら前学期からお仕事が多忙となりご欠席される機会が多くなりましたが、この句を読んですかさず「今度の取締役会の答弁だ」との感想を述べられました。今お一人の H さんは、この所テクスト朗読後の訳が以前よりたどたどしく、いわゆる直訳調になってきたようです。H さんご自身の言葉を、キケローのテクストから直に読み取ろうとされている証だと思われます。

キケロー壮年期の 43 歳、当時のローマで最高の政治権力を担う執政官となり、その経歴の頂点とも言うべき折にこの弁論は行われました。謀反を企てるカティリーナに対し渾身の力を込めた言葉が発せられ、修辞的技巧はその力が自ら際立つ箇所で遺憾無く用いられています。弁論冒頭に見られる修辞疑問の繰り返し、要所要所で現れるトリコーロン、更にはとどめとも言うべきキアスムス。そのような技巧にまして目を引くのが、キケローその人を指す一人称単数代名詞 ego の多用です。ラテン語では動詞の活用語尾で主語が特定されるため、特殊な場合以外このような代名詞は用いられないのが通例で、これほどの多用には一読目を瞠ります。

これは弁論、すなわち発話を基にしたジャンルならではの特徴という可能性も考えられますが、キケローはカティリーナに対峙するのみならず、このような不穏な動きに明確な態度を取ろうとしない、その場で彼の言葉に耳を傾けている元老院議員に対しても、執政官としての責務を果たしている自己の姿を前面に押し出そうとしているのかも知れません。これら ego には、そのようなキケローの声を、活字を通して生き生きと蘇らせ、その姿まで眼前に躍動させるほどの迫力が備わっています。

この原稿を書いている時期、『カティリーナ弾劾』の講読が始まる 8 時前にお山の階段を登ると、西の空には宵の明星がひときわ明るく輝き、少しく上を見やれば木星がお忘れなくと光を投げかけています。その共演の中、ほぼ一月ごとに、他ならぬ月が日々その形を変えながら彼らを足早に追い抜き、上空高く君臨するようになります。前学期読み終えた『スキーピオーの夢』の説によると、彼らにはそれぞれ異なった音色が付いているとの由。今日はどんなハーモニーを奏でているのかとしばし仰ぎ見ながら、離れの教室に向かう日々が続いております。 (文責:山下大吾)

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