0119 山の学校ゼミ(倫理)

浅野です。

 

エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』を読みました。

 

これは本当に今の状況によく当てはまるように感じます。

 

 

 いままで論じてきた(逃避の)メカニズムにおいては、個人の外部の圧倒的な力に比較して感じられる自己の無意味感を克服するために、かれの統一性を放棄するか、あるいは外界がもはや脅威的なものとならないように他者を破壊するか、していた。
そのほか、逃避のメカニズムには、外界から完全にしりぞいて、外界が脅威を失うようにする方法(ある種の心理的状態にみられるもの)や、自己を心理的に拡大して、外界を相対的に縮小する方法がある。これらの逃避のメカニズムは、個人心理的には重要であるけれども、文化的には大した意味をもっていない。それでここでは、それらをさらに論じていくことはやめよう。そのかわり、社会的にもっとも重要な意味をもつ、もう一つのメカニズムにむかうことにしよう。
この特殊なメカニズムは、現代社会において、大部分の正常なひとびとのとっている解決方法である。簡単にいえば、個人が自分自身であることをやめるのである。すなわち、かれは文化的な鋳型によってあたえられるパースナリティを、完全に受けいれる。そして他のすべてのひとびととまったく同じような、また他のびとびとがかれに期待するような状態になりきってしまう。「私」と外界との矛盾は消失し、それと同時に、孤独や無力を恐れる意識も消える。このメカニズムは、ある種の動物にみられる保護色と比較することができる。かれらはその周囲の状態にまったくにてしまうので、周囲からほとんどみきわめがつかない。個人的な自己をすてて自動人形となり、周囲の何百万というほかの自動人形と同一となった人間は、もはや孤独や不安を感ずる必要はない。しかし、かれの払う代価は高価である。すなわち自己の喪失である。
孤独を克服する「正常な」方法が、自動人形になることであるという仮定は、われわれの文化のうちにもっとも広くいきわたっている人間観と矛盾する。われわれの大部分は、自分の思うままに自由に考え、感じ、行為する個人であるとみなされている。たしかにこれは、近代の個人主義の主題について、一般にいわれる意見であるばかりでなく、各個人も自分は「自分」であり、かれの思想、感情、願望は「かれのもの」であると、真剣に思いこんでいる。たしかにわれわれのあいだには、本当の個人もいるが、しかしたいていのばあい、この信念は一つの幻想である。しかも、この信念は、このような事情の原因である諸条件を撤去することを妨げるものであるから、危険な幻想なのである。

エーリッヒ・フロム著、日高六郎訳『自由からの逃走』(東京創元社、1965)pp.203-204

 

現代的に思い切って言い換えると、一段落目は、優等生的に過剰適応するか他者のことは構わず自己中心的に暴れるかということです。二段落目は、ひきこもりかある種のユーチューバーに見られるような誇大妄想的な自己像を持つかということでしょう。三段落目は、テレビなどで言われることをそのまま受け止めて世の中に流されるということです。そしてこれが全体主義につながったのだという分析がこの後の箇所でなされます。