『フランス語講読』クラス便り(2016年6月)

「山びこ通信」2016年度春学期号より下記の記事を転載致します。

『フランス語講読』 

担当 渡辺 洋平

 フランス語講読Aの授業では、冬学期から、ジャン=ポール・サルトルの文学論集『シチュアシオン(Situations)』(1947)に収録されている、アルベール・カミュについての評論「『異邦人』解説(Explication de «Étranger»)」を読み、読了しました。後に「サルトル・カミュ論争」として知られる論争を起こすことになる両者ですが、この段階ではサルトルはカミュを高く評価しています。サルトルの解説は『異邦人』の読解としても非常によくできており、新潮文庫版『異邦人』の解説でも触れられています。そこでここでは少し別の少し観点から、思想的・哲学的な面について書いてみたいと思います。それは「時間」に関わる論点です。
 サルトルによれば、『異邦人』の主人公ムルソーには「現在」という時間しかありません。例えば、ムルソーが、恋人のマリーに自分のことを愛しているかと聞かれる場面があります。ムルソーはそこで、「そんなことは何の意味もないし、おそらく愛していないだろう」と答えます。普通の人間ならば、たとえ四六時中相手のことを考えているわけでなくとも、愛していると答えるでしょう。それに対し、「不条理な」人間であるムルソーはそうは答えません。サルトルによれば、それは、ムルソーにとってはただ現在だけが重要だからです。母のお墓参りに行かないのも、もし行けば日曜日という「現在」が失われてしまうからです。つまり、「不条理な」人間であるムルソーにとって、時間とはその都度その都度の現在が継起することでできあがっているのです。サルトルはこのことを、ヘミングウェイ風の文体とも関連づけながら跡づけていますが、ここに隠されているのは、サルトルによるベルクソンへの批判です。ベルクソンは、サルトルよりも一世代上の哲学者ですが、彼は、時間は現在という点をいくらあつめても決して構成することができないような、不可分一体の流れだと主張していました。サルトルは『異邦人』を読むことでベルクソン流の時間とは異なる時間性を見つけたのでしょう。事実、論考の後半で一度だけベルクソンの名を挙げて、カミュによる不条理な人間と対置しています。このように文学作品を扱いながら哲学的な問題にまで踏み込んでいく読解は、文学者・思想家としてのサルトルの面目躍如と言えるでしょう。
 今後のフランス語講読Aの授業では、ここで名前の出てきたアンリ・ベルクソンの講演論文集『精神のエネルギー(L’énergie spirituelle)』(1919)より、「心と体(L’âme et le corps)」を読んでいきたいと思います。

フランス語講読Bの授業では、引き続きルネ・デカルトの『方法序説』を読み続けています。最終部である第六部の後半にさしかかり、いよいよ終わりが見えてきました。すでにまとめに入り始めているため、内容としてはさほど書くべき事もありません。具体的には自分の考えを公表することのメリット・デメリットを書いているのですが、この辺りは一種の学問論・人性論とも言える趣があるので、やはり各自で読んでみて、自分なりに考えてみることが大事だと思います。いずれにせよ古典を読むことの意味とは、人類が歩んできた道を見直し、現代がどのようにして生まれてきたのかを明らかにしつつ問い直す点にあると言えると思います。この意味で「近代」をひらいたとされるデカルトの著作は、肯定されるにせよ批判されるにせよ、これからも読み継がれていくことでしょう。
なお、この授業では春学期中の『方法序説』読了を目指しています。これが読み終わり次第、次は、Aの授業と同じアンリ・ベルクソンのもうひとつの講演論文集『思考と動き(La pensée et le mouvant)』(1934)から、「形而上学入門(Introduction à la métaphysique)」を読んでいく予定です。デカルトは科学の方法として特に分析と総合という方法を重要視しましたが、ベルクソンはそれを科学の方法として認めつつも、哲学あるいは形而上学は科学とは異なり「直観」を用いるべきだと主張しました。この辺りをデカルトとの思想との関連性も念頭に置きつつ読んでいきたいと思います。
なお、A・Bどちらの授業も受講生を募集していますので、ご興味をもたれた方の参加・見学をお待ちしています。