『自分で考えて答えを見つける体験を!』(「学びの夕べ」リポート2015年1月)

「山びこ通信(2014年度冬学期号)」より、下記の記事を転載致します。

イベント    学びの夕べ  リポート
『自分で考えて 答えを見つける体験を!』
講師:山崎和夫(京都大学名誉教授)

●  山崎先生の講演会に参加して      山下 太郎

先生の講演会に参加して感じたことは、このようなお話を中学か高校時代に聞いていたら、自分の人生は変わったに違いないということでした。前半は数学的思考の楽しさを味わい、後半は「魂が魂に語り掛ける」先生の気迫に満ちた言葉の魅力にふれました。ご講演後、先生が87歳とは思えない、ご高齢の先生がこれほど熱意をこめて語ってくださる姿勢に感銘を受けた、といったお声をあちこちからちょうだいしました。私もまったく同感でした。
先生によれば、数学の法則は千年たっても「正しいものは正しい」のに対し、物理学の法則は「永遠に正しいとは言い切れない」──数学的正しさという意味において──、だからこそ、自分にとって物理学の定説は、常に「なんでや? なんでや?」と疑う力を強く喚起するものであり続けた。学問において一番大事なことは、この「なんでや? なんでや?」と、絶えず根拠を疑い、問い続ける態度です、というメッセージをいただきました。
お話をうかがいながら、私は──タイミング的に今回の山びこ通信巻頭文を書いていた時期と重なったこともあり──キケローの肉声を間近で耳にしているかのような錯覚にとらわれました。そして、「議論を行うさいには、権威よりも理論の説得力こそ求められるべきである」というキケローの言葉を意訳するなら、(京都弁で)「なんでや? なんでや? と問うことが一番大事」となるな、と一人合点しておりました。
今回はもう一つ、ご縁というべき運命の不思議を感じました。といいますのも、先生のご尊父は、京大の西洋古典学講座の初代教授、田中秀央先生にほかならず、私の祖父は生前田中先生と親しくさせていただいたのでした。父から聞いたことですが、晩年の田中先生はあるとき本園に勲章を持ってお越しになり、全園児の前でそれを披露されながら、「みなさんも、努力してこういう勲章がいただけるような立派な人になってください」とお話くださったということです。
今回山崎先生は幼稚園の園舎にお越しになり、本園の卒園児、保護者、山の学校の会員を前に貴重なお話をしてくださいました。そのお言葉の一つ一つは、輝く勲章の煌めきのように、参加者一人一人の心を魅了し、鼓舞するものでした。この場をお借りし、先生にはあらためて感謝申し上げます。

● 『学びの夕べ』──自分で考えて見つける体験を!  福西 亮馬

2015年1月31日(土)に行われた、『学びの夕べ』についての報告です。
講師は、京都大学名誉教授の山崎和夫先生。山崎先生は、京都大学基礎物理学研究所で湯川秀樹先生の助手を経て、ドイツのマックス・プランク物理学研究所で約十年間、ハイゼンベルク先生のもとで理論物理を研究されました。また翻訳業においても、『部分と全体』(ハイゼンベルク著、山崎和夫訳、みすず書房)などの訳書を世に送り出されました。先生は京都の北白川(「山の学校」のご近所)にお住まいで、北白川幼稚園とのご縁も深く、この日の会が実現しました。
ここからの記録は、山崎先生のお話を聞いて、私自身が記憶している部分になります。内容の理解に間違いが含まれている恐れがあります。以下はどうかそのことをお含みおきください。

会の前半は、数学の問題を、会場のみなさんが個々にまたは一緒になって考えました。「法則を見つける」という時間でした。後半は、物理学のテーマから宇宙や素粒子のお話を伺いました。
小学生から、「前半と、後半と、どのようなつながりがあるのですか?」という質問がなされました。それに対し、山崎先生は次のような主旨で答えられました。
「前半で考えた数学の問題は、抽象的です。だからこそ、一度正しいと証明できれば、今後もずっと正しいと言える事柄です。一方、後半で話した『宇宙に果てはあるか?』という事柄は、具体的です。それは、今正しいと考えられていることが、いつかは
会の前半は、数学の問題を、会場のみなさんが個々にまたは一緒になって考えました。「法則を見つける」という時間でした。後半は、物理学のテーマから宇宙や素粒子のお話を伺いました。
小学生から、「前半と、後半と、どのようなつながりがあるのですか?」という質問がなされました。それに対し、山崎先生は次のような主旨で答えられました。
「前半で考えた数学の問題は、抽象的です。だからこそ、一度正しいと証明できれば、今後もずっと正しいと言える事柄です。一方、後半で話した『宇宙に果てはあるか?』という事柄は、具体的です。それは、今正しいと考えられていることが、いつかはそうでない日が来てひっくり返るかもしれないという問題を含んでいます。どこまで行ってもそうなのです。数学で考えた点はどんなに拡大しても、点のままで大きさを持ちません。一方、身の回りにある点はどんなに小さくても、(宇宙の大きさまで)拡大することができます。すると『一兆円を一兆分の一秒間だけ借りてきて、都合、一秒間に一円だけ借りた』という解釈も成り立ってしまいます。そこが抽象的なもの(数)とは違う、具体的なもの(物理)を考える上で難しいところです。けれどもその分からない物のことを分かりたくなり、突き詰めていこうとすると、やはり数学という考え方が、抽象的だからこそ目に見えない物事に対して有力となってくるのです」と。
たとえば、これは大人の方からの質問でしたが、「ダークマター(暗黒物質)のような、光で観測することのできないものの存在を知ろうとするには、どうしたらいいのでしょうか」という疑問に対しても、「対称性という数学の概念が(光に代わる物の候補として)考えられてきました」というお話がありました。
それから、先生は『ラプラスの悪魔』という話を引用して、因果律の話をされました。ラプラスの悪魔とは、十九世紀、微分方程式の研究が盛んに行われ始めた頃にラプラスという人が考えた、「もしすべての原因となる出来事を瞬時に理解できる全知全能の存在がいたら、その者はすべての未来(結果)を知ることができるだろう」という、その考え方自体のことです。そして科学者の中には、この原因と結果の法則を知ることの延長線上に、「今は分からないことがあっても、いつかはそのすべての分かる時がやって来る」と信じている立場があります。そこで、山崎先生は、(量子力学の不確定性原理をもとにして話されていたのだと思いますが)、「分からないということが本質的」という前提に立って、次のような主旨で話されました。
「物質は分子に、分子は原子に、原子は原子核と電子に、原子核は陽子と中性子に、陽子と中性子はクォークという素粒子に、クォークという素粒子はまたサブクォークという素粒子に……と、どんどんその先を尋ねて行って、そうして行き着いた先が、本当に『分かる』ということなのだろうか? 『最小単位は何か』と探ろうとする努力が、今後もし行き詰まりを見せるようなことがあるとするならば、その時には、『最小単位は何か』という、最初の『問いの立て方』がむしろ悪かったのではないか。宇宙、あるいは原子の中身は、そもそも『こうすれば、こうなる』という決定論的な姿をしていないのではないか。そのような『分からない』から再出発することには、むしろ新しい見方の芽が隠されているのではないか」と。
以上のように、山崎先生は、「良い問いを立てること」の重要さを印象深く述べながら、「本当に知るということは、もっと深いことなのだ」ということを、じかにお話しくださったのだと思います。
また、会の後で伺った際には、こうも仰っていました。
「問いの立て方が悪いと、あとでどんなに良い計測機や実験設備を持ってきたとしても、その中で堂々巡りして、きりがないことになってしまいます。しかし、問いの立て方が良かったとしても、それが早すぎて技術が追い付いていないと、結局はその問いがまた埋もれてしまうことになります。もし二十世紀の天才と言われたアインシュタインが十九世紀に生きていたとすれば、果たして同じような仕事ができたか、どうか。その時代の道具立てが揃っていることも重要なのです」と。
そのような両義的な反省に立つことが、学校で学ぶことの吸収力を変えるのではないかとも思われました。

以上のように振り返ってみますと、会の前後の内容は、以下のような「問いかけ」だったのではないかと思います。──「知るということは、どのような原動力でなされ、どのような困難に遭いながら成し遂げられていくことなのか。そしてその困難が今後も続くものなのだとすれば、それに向かってどのような態度で臨んで行けばよいのか」と。そのような「知る」ことに対する「ゆらぎ」をもって、山崎先生は、小・中学生たちや、私たち後進の大人たちを励まそうとしてくださったのだと感じました。そのこと自体に深い意義を覚えました。

最後に、私自身としては、山崎先生が仰った次の言葉が印象的でした。
「振り返ると、誰しも、あの時こうしておけばよかったと思うことがたくさんあります。しかし、それをすべてあの時に戻ってそうしたからといって、それが今となっていいことになっているのか、どうなのかは、結局のところは誰にも判断できないでしょう」と。

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会の前半、数学で取り上げた内容は、「倍数の判定法」でした。ある数が2で割り切れると判定するには、どの桁の数に注目すればよいか。またそのような法則は、4や8ではどうか。5ではどうか。さらに、3、6、9の場合ではどうか、という順で考えました。
そして当日、会が終わってから、参加者(保護者)の方に右記の考察をご報告いただきました。この場を借りてご紹介させていただきます。

 本日の山崎先生の「割り切れるか?」についての追加考察です。
7で割れるか:
1)1,000,000ごとに区切って数字を足しあわせていく。
注:ただし、和が7桁を越えた場合には、1)の作業を繰り返す。
2)1001が7で割れることから、「下3桁」から「上3桁」を引く。
3)このMAX3桁の数が7で割れるなら割り切れる。
4で割れるか:
下2桁で判定するのですが、下2桁をまず20で割って(要は10の
位を偶奇により0か1にする)、その余りで判定します。
8で割れるか:
下3桁で判定するのですが、下3桁をまず200で割って(要は100
の位を偶奇により0か1にする)、さらに40で割って(10の位を0か
ら3にする)その余りで判定します。          (H.Y.さん)

注記)以下に補足として計算例を示します。
「7で割れるか」の例:1,234,567,890,987,654,321
→1|234567|890987|654321
→1 + 234,567 + 890,987 + 654,321 = 1,779,876
→1 + 779,876 = 779,877 (779,000+877 = 779×1,001-779×1+877)
→877-779 = 98
98は7で割れる。よって、元の数も7で割れる。
(最初の作業は、106も1012も1018もすべて「7で割ると1あまる」法則を利用しています。1×1018 + 234,567×1012 + 890,987×106 + 654,321 = 7の倍数の塊 + 1 + 234,567 + 890,987 + 654,321)
「8で割り切れるか」の例:1,234,506,798 (「4で割り切れるか」も同様の流れ)
1,234,506,798 (1,234,506×1,000+798であり、1,000=125×8より、下3桁だけが問題となります)
→798 →198 →38
38は8で割れない。よって元の数も8で割れない。
(200や40で割ることは、200=125×8、40=5×8を利用して、8の倍数を除くというアイデアです。
これを「棒取り」という遊びにたとえるなら、砂山に立てた棒が倒れない範囲で、できるだけ大きな塊から周りの砂を取っていくような作業です)