「山びこ通信(2015年度春学期号)」より、下記の記事を転載致します。

『フランス語講読』(A・B)

担当 渡辺 洋平

 今学期もA、Bふたつのクラスでデカルトの『方法序説』を読み進めています。この授業が始まって1年と少しになりますが、Aのクラスは終わりが見えてきました。残すところあと数頁となり、内容的にもまとめにはいってきています。最終章の第六部では、『方法序説』を書くことになったいきさつが述べられています。デカルトは当初、『世界論』という別の著作を公刊する予定でしたが、コペルニクスの地動説を支持したガリレオ・ガリレイがローマ法王庁で宗教裁判にかけられ、終身禁固の刑に処せられたことを知り、急遽公刊を取りやめます。デカルトもコペルニクスの説を肯定していたためです。そこで宗教上問題とならないであろう『屈折光学』『気象学』『幾何学』の三篇の論文を公とすることとし、『方法序説』は最後にその序文として書かれたものなのです。そのいきさつを述べつつ、学問における実験の重要性が強調され、また名誉よりも心の平穏を望むデカルトの人柄も垣間見ることができます。Aクラスは、『方法序説』が読み終わり次第、ノーベル文学賞作家J・M・G・ル・クレジオ(1940-)のL’Africain (2004)という自伝的エッセイをテクストにする予定です。
 Bのクラスは現在、第四部の後半を読み進めています。第四部は、デカルト自身があまりに形而上学的で万人が好むものでないと断っているとおり、『方法序説』のなかで最も抽象的で、内容的にも分かりにくい箇所です。特に推論によって神の存在を証明するいわゆる「神の存在証明」が行われますが、文章も無駄のない圧縮されたもののため、一読しただけで議論を理解するのは難しい箇所です。文法的にも直訳するだけでは日本語にはなりにくい劣等比較級の否定文や、虚辞のneなども多く出てくるため、これらの文法事項に慣れないとなかなか文意がとれません。その他にも「知ることは疑うことよりも完全である」、「神とは最も完全な存在である」といった命題が自明とされているために、デカルトから時間的にも空間的にも隔たったところにいる私たちにはうまく飲み込めない部分もあります。とはいえ推論という知性の働きによって神を捉えようとする姿勢には、古代ギリシア以来のヨーロッパ文化の一面が表れているとも言えるでしょうし、その特殊性を認識しつつ、引き続きじっくりと読み進めていきたいと思います。

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