『ロシア語講読』(クラス便り2015年6月)

「山びこ通信(2015年度春学期号)」より、下記の記事を転載致します。

『ロシア語講読』

担当 山下 大吾

 

 前学期まで主にプーシキンの抒情詩や物語詩を読み進めてきた当クラスですが、今学期は19世紀ロシア文学の掉尾を飾る作家チェーホフの短編に取り組んでおります。テクストは後期チェーホフの代表的短編として知られるいわゆる「小三部作」の第一篇、『殻に入った男』を読み終え、現在は次篇の『すぐり』を読み進めております。受講生は引き続きTさんとNさんのお二方です。
 『殻に入った男』の主人公ベリコフは、ただでさえ行き場のない閉塞感があちらこちらに漂う19世紀末ロシアを背景として、「ああ、何も起きなければいいが」との口癖をこぼしながら、言いようのない抑圧の感情を他人に引き起こさせ、また押し付けずにはいられないギムナジウムの古典語教師です。彼の姿勢は一歩足を踏み外せば、数十年後のソビエト・ロシアで実現してしまったスターリンの粛清という恐怖政治に展開するものであり、またそれを象徴し予言するものとしてこの作品を読むことも可能でしょうが、少なくとも表面的にはベリコフの滑稽なほどの臆病な側面が印象深く心に残ります。結局彼も結婚を目の前にしながら、その結婚相手の何気ない口癖である「ハハハ!」という快活な笑い声が命取りとなって惨めな死を迎えますが、それはむしろ彼にとって何より代えがたい安息の場、棺桶という一歩も足を踏み出す必要のない理想的な「殻」の獲得に他ならなかったのです。
 「散文のプーシキン」の名に相応しく、口癖のみならず何気ない仕草や表現がごく自然な形で随所に描かれることにより、自らリフレインの効果を醸し出す独特の文体。片々とした日常の一コマからある普遍的なものを抽出していく鮮やかな手際。チェーホフを読む喜びの一つと言えましょう。
 これまで取り組んできたプーシキンの作品は全て彼の韻文による作品で、アクセントの位置や押韻などに厳しい制約があり、その点も絡んで講読のテクストとしてはむしろ後回しになってしまうのが通例ですが、漸く通常の講読スタイルの授業が実現致しました。毎回の授業では、擬人化により通常の格支配とは異なった形態が現れた例や、同形態で異なった意味にとれる例などロシア語に関する問題のみならず、日本語の「てにをは」に関する問題などが話題に上り、お二方の勉学に励むスタイルには益々磨きがかかってきたようです。