『フランス語講読』(クラス便り2015年2月)

「山びこ通信(2014年度冬学期号)」より、下記の記事を転載致します。

『フランス語講読』              渡辺洋平

 フランス語講読の授業は昨年から引き続き、17世紀フランスの哲学者ルネ・デカルトの『方法序説』をA、Bふたつのクラスで読み進めています。
 Aのクラスは現在第5部の後半まで来ています。『方法序説』の山場ともいうべき第4部を終え、ここから話はデカルト流の自然学に移っていきます。自然学といっても、ここで述べられているのは、人間の身体、それもとりわけ心臓がどのようなつくりになっていて、またどのような働きをしているのか。そして人間と他の動物はどこが違うのか、といった話です。デカルトは心臓を「光なき火」を持った器官と考えており、この仮説から血液の循環や体液の生成を説明しようとしています。こうした考えは、現代の知識に照らせば誤っているとも言えるのですが、デカルトが当時知っていた知識と、知らなかった、あるいは知りえなかった知識を分けて考えることにより、デカルトがどのような知識をもとに、なにを考えようとしていたのか、それを考えながら読み進めています。現代の知識を元にして、過去の人々をあたかも無知な人間のようにみなすのは、やはり現代人の思い上がりだと言わざるをえないでしょう。これは他国や他文化の人々に対する態度にも言えることではないでしょうか。
 Bのクラスは第3部の終盤を読み進めています。デカルトは絶対で確実な真理の探究を目標に掲げるのですが、それではこの真理を探しているあいだはどうしたらよいのでしょうか。それがこの部の主題であり、そのための当座の規則が、ここで語られる「暫定的道徳」と呼ばれるものです。自国の慣習や風習、宗教に従うこと、一度決めたことはよほどのことがない限り守り続けること、運命よりも己に打ち克つよう努めること、などが語られていきます。とはいえこの規則はあくまでも「暫定的」なものにすぎません。次の第4部にいくと、「我思う、故に我あり」という命題が絶対に確実な真理として見出されることになるのです。Bのクラスも、もう少しでこの真理に到達できそうです。
 どちらのクラスも、分かりにくい箇所に関してはなるべく文法的な説明も加えるようにしています。デカルトの文章は一文が長く、決して簡単ではありませんが、非常に明晰な文体で書かれており、文法的に破格な箇所というのはほとんどありません。『方法序説』を原文で読みこなすことができるようになれば、現代の大抵の文章は読めるようになるのではないでしょうか。フランス語の学習という点においても、非常によいテクストだと日々感じています。