『ことば』(1〜2年A・B)  (クラス便り2015年2月)

「山びこ通信(2014年度冬学期号)」より、下記の記事を転載致します。

『ことば』(1〜2年A・B)

担当 福西亮馬

 Aクラスでは、一年を通して百人一首を暗唱してきました。この原稿を書いている頃には十七首目となりました。冬学期の終わりには二十首を少し越えているあたりでしょうか、それで歌のおよそ五分の一に触れたことになります。その間に生徒も、最初は一人のところから、川の流れのように集まって、いつしか五人になっていました。
 歌の馴染みのつけ方は人それぞれですが、「一首これが好き!」という歌があることが、とびきり大事なことだと思います。昨年12月のイベントで、かるた大会をしましたが、その時も、「札が取れてから好きになった」という生徒が何人かいました。それも嬉しいことでした。
 古今和歌集の仮名序に、歌は「鬼神をもあはれと思はせ」る、とあります。その歌の一つでも胸に持つことは、きっとこれからのお守りとなるでしょう。五七五七七の歌の形式は、異国の文化に範を取ってきた日本人が、いかにして真心を表現できるかと思って磨いてきた「固有の器」です。そうした文化背景に身を置きながら、自身もまた固有であることに胸を張る気持ちは、人をも同じように固有であると認めるための「もと」です。いつ、どこへ行っても、それは変わらないだろうと思います。
 創作では、俳句作りが特に男の子を中心に盛り上がりました。これはBクラスとは違う特徴で、Aクラスの方が「書く」ということに対して意欲的でした。俳句帳は、お家で新しいファイルに移してもらったり、句紙を紅葉や花型に切ってもらう生徒も出てきました。そのようにさりげない大人の介添えで大事にされた出来事は、結局は何になるかと言えば、その生徒の真心として根付くのだと思います。それは何につながっているかが分からないからこそ、大事だと思います。先に述べた歌の一首の重さと同じく、ぜひ、そうした自分経由の古典もさりげなく大事にしていってください。
 本読みでは、『火よう日のごちそうはひきがえる』(E.エリクソン作、佐藤涼子訳、評論社)を読んでいます。あと二回ぐらいで読み終わります。その後は、また昔話をいくつか読みたいと思います。

 Bクラスでは、冬学期は、諸子百家の章句を暗唱してきました。春と秋に紹介した『孫子』と合わせて、十四句ほど覚えました。このクラスの特徴で、四人が四人とも知りたがり屋の元気な男の子ばかりだったので、ここはひとつ硬派に「寺子屋風」で行こうと思い立ちました。彼らが素読に最後までついてきたことを称揚したいと思います。
 「吾十有五にして学に志す、三十にして立つ、四十にして惑わず…」など、もちろん短いと、サビの部分に限定される憾みがあります。それをやむを得ずとしながらも、単に有名だからというのではなく、繰り返し歌い調子で覚えられそうなものを選んで採りました。一方、「すなわち」や、「ゆえにじす、と」、「もってやむべからず、と」のような、書下し文特有の言い回しは、一年生には当然のように難しくあります。けれども、時にかっこよく聞こえることもあって、すっと入ったものはなかなか抜けにくいこともあります。やはりこの時期に憶えたものは自信になります。
 しかしながら一方では、それを忘れてしまってもいいようにさえ思います(ただし思い出す時にはきっとすぐに思い出せると思います)。というのも、私が眼中とするのは、「命ながければ恥多し」や「出藍の誉れ」といった言葉には「元となった原文がある」という事実の方だからです。その事実に触れておくことで、将来、ことわざのような知恵の塊に、歴史を感じ、無味乾燥なものとしてもったいない覚え方をするのではなく、むしろ竹馬の友にすることを私は期待しています。
 残りの時間では、絵本をよく読みました。先にも書きましたが、Bクラスでは「書く」ということに、まだ幾分遠慮や抵抗があるらしく、その分の時間をじっくり読むことに振り分けて、「お話の時間」として味わっています。待つことだと思います。Bクラスの方が、幼稚園の時期に読みそうな絵本に対する人気が高いです。こうしたバランスをむしろ、すこぶる面白く見ています。