山下です。

表題のエッセイを書きました。

 表題の言葉は、曾国藩(1811-72)の言葉で、「ただ耕耘(こううん)を問え」と続きます。学校教育にあてはめてみると、なかなか含蓄のある言葉のように思われます。昨今流行の「成果主義」と対照的な考え方ですが、「成果」や「達成」を軽視している言葉ではありません。「成果」はそれ自体を目的として追求するとき、逆に「耕耘」が疎かになり、結果として(思ったほどの)「成果」を得ることができません。

山道を思い浮かべてください。成果主義、すなわち、山のてっぺんに到達するという目的だけを何より重視するとき、私たちは山を登る楽しみを忘れ、一刻も早く(できれば汗をかかずに)てっぺんに着くことを考えます。その結果、楽をして登れる「効果的な」道はないものかと、キョロキョロと「道探し」に気持ちが向かうのが一般です、目の前の道が山頂につながっている事実も忘れて(「教科書未履修」の問題もそういうことです)。それゆえ、肝心の「耕耘」を疎かにする、すなわち、山道を一歩一歩、歩いて登る努力を怠る、というわけです。

大事なことは休まずに目の前の道を歩き続けることです。「成果」はどうでもよいというのではなく、「耕耘」と「収穫」を問う順序が逆なのです。「収穫」を目的にするとき、人はいったんそれを達成すると「耕耘」をやめますが、絶えず「耕耘」を問う者は、必ず新たな「収穫」に向かって挑戦することをやめないでしょう。

さて、「山の学校」は今から四年前、「楽しく学ぶこと」をモットーに旗揚げしました。「楽しく学ぶ」とは「笑いながら学ぶこと」ではありません。事実は逆で、「真剣に学ぶこと」が「楽しく学ぶこと」の本質なのです。「学びの山道」は厳しいものです。しかし、「真剣に学ぶこと」を継続すれば、誰にとっても、その道は楽しいものに見えてきます。漢字や計算が苦手なまま中学に入ったり、中学で学ぶ数学や英語が疎かなまま高校に進学した場合、目の前の道が厳しくそびえて見えるのは当然です。ただ、本人の中に「耕耘を問う」気持ちがある限り、いくらでもチャンスはあります(必ず道はつながっています)。「山の学校」の仕事は、生徒が山道のどこにいても(学校の成績がよくても悪くても)やることはいつも同じです。絶えず「耕耘を問う」よう励ますこと以外にありません。

「収穫」がどうでもよいわけはありません。ただ、「山の学校」の考えでは、「収穫」よりも日々の「耕耘」を問うことが何より大切であり、その結果「楽しく学ぶ」ことも可能になり、さらにその結果として、例えば、志望校に合格する等の「結果」もついてくる、ということです。(実際、「山の学校」に通うことで勉強への苦手意識を克服した事例や、難関校に合格するなどの事例など、語るに値する「成果」も多々見られますが、それらの事例はあくまでも本人の努力のたまものであり、我々が殊更に「自慢」すべき成果ではないと考えます)。

古代ギリシアの詩人ヘシオドスは「神は幸福の前に汗を置いた」と述べました。汗をかいて目の前の道を登り続けるとき、その歩みはたとえ遅々としたものであっても、いつか「よくここまで登れたなぁ」と感嘆し眼下に広がる景色を眺める瞬間が訪れるでしょう。あせって「成果」ばかりを問う人は、なかなかその瞬間を待つだけの忍耐をもつことができません。「収穫」は心の中で信じるにとどめ、日々「耕耘」を問うこと(=耕耘をさぼっていないか、厳しく自省すること)が何より大切であると信じ、私は日々生徒たちと一緒に、「学びの山道」を登っています。

Share