ことば1~2年B(1105)

福西です。今週は『ラチとらいおん』(マレーク・ベロニカ/作、徳永康元/訳、福音館書店)を読みました。

私がこの絵本を知ったのは、10年ほど前のことでした。当時、山の学校で講師をされていた、宇梶先生が、私に教えてくれました。

それとともに思い出されたのが、「失敗を恐れないで」という、宇梶先生のメッセージでした。決して上から頭ごなしにものを教えずに、「寄り添う」ことが、この先生のいつも変わらぬスタイルでした。それを思い出しながら、クラスで読みました。

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ラチは、いろいろなことに、尻込みしてしまう男の子でした。そのことを「弱虫」と人に揶揄されるようなとき、彼にとっての心の慰めは、一枚の絵でした。

「ラチは、このえが いちばん すきでした。」

と、勇ましいらいおんの絵を手に取って、ラチはこう言います。

「ぼくに、こんな らいおんがいたら、なんにも こわくないんだけどなあ」

と。すると、その願いから出てきたものなのか、「ちいさな あかい らいおん」が現れます。その容姿は、絵の中のたてがみのあるらいおんとは、似ても似つかぬ、ファニーな感じです。

ラチは、そのらいおんから、突拍子もなく体操のしごきを受けます。「強くなる」ためのレクチャーというわけです。そしてらいおんは、ラチのポケットの中にもぐり込みます。(ぼくがついているから、だいじょうぶ)とばかりに。

ここで、ラチからも、読者からも、らいおんの姿はいったん見えなくなります。

けれどもラチはというと、ポケットの中には「らいおんがいるんだ」と思って、今までこわがっていたものを直視できるようになります。「らいおんがついている」──そう肌身に感じると、不思議と勇気も湧いてくるものなのでしょうか。

生徒たちの反応はというと、前半のうちは、お互いに強さ自慢に花を咲かせていました。

「ぼくの方がもっと強いで!」

「ラチって、ばかやなあ!」

「そんなんこわくないし!」

「ぼくやったら、こうして、こうして、やっつけてやる!」

と、勇ましいことを言っていました。

ところが後半、次第にお話に引き込まれていくうちに、様子が少し変わってきました。ラチがたどたどしくても、目の前に立ちはだかる問題を一つずつクリアしていく様子を、控えめなトーンで見守るようになっていました。おそらく絵本の中で追体験してくれていたのでしょう。そこに何とも言えない読み応えを感じました。

最後に、らいおんだったものは、赤いりんごに変わっていました。

ここでRyohei君が、面白いことを言いました。

「きっと、りんごが、らいおんやったんや!」

と。念のために「らいおんがりんごになったのか」と確認して聞くと、「そうじゃない」と。「りんごが、らいおんになって、それがまた、りんごになったんだ」と。なるほど、それもありえることだと思いました。

Ryohei君の説では、ラチにはいつの間にかりんごが「らいおん」に見えるようになり、それが具現化してしばらくしてから、また元に戻った、というわけです。

最後の最後は、らいおんの置き手紙を、みんなで囲むようにして、しみじみとしながら、読むことができました。

強さの仕上げには、「別れ」がなくてはなりません。そしてそれが伴わないうちは、おそらく、まだ空想に似たものなのでしょう。

「らいおん」ではなくて、「らいおんとの別れ」を心に持ったラチは、むしろ自分がらいおんそのものになることができたのだと思います。また、そのラチにとって、らいおんとは、相手の自立に寄り添ってくれた揺籃の師とも呼べる存在なのでしょう。

絵本の一番後ろのページに、飾らないらいおんの様子を認めた時、ふと生徒の誰かが、「今もらいおんは、どこかにいるんやなあ」と言いました。それが、「らいおんもがんばれよ」というエールに私には聞こえました。

絵本は、さっと読めば、さっと読めてしまいます。ですが、ゆったりとした気持ちで読めば、一層味わい深くなるものなのだなあということを、生徒たちの反応から教わった、そんな一日でした。