『ことば』(1~2年 A・B)クラス便り

「山びこ通信(2014年春学期号)」より、クラス便りを転載致します。

『ことば』(1〜2年 A・B) 担当:福西亮馬

Aクラスでは、『百人一首』の暗唱をしています。また書く方の取り組みでは、「俳句かるた」を自作しています。

俳句や百人一首はもとより日本固有の古典であり、その価値は周知の通りです。ですが生徒たちの言葉もまた「彼らにとって」固有の古典となりえます。それは特別なものであり、彼らの人生の一部分です。そのような言葉を、彼らが自分で書き残してくれることに寄り添い、また捨ておかれた部分にも代わりにそうしておくことが、私の役目だと思っています。とりもなおさず、私自身そうしてもらった経験があります。そして今に至り、その「バックアップ」という事実を大事に思えばこそ、今度は自分がそれをする番だと思っています。

古典は、思い出すたびに何度でも力が湧いてくる言葉です。大事に思い出した分だけ、その部分がまた前よりも付け加わって大事になっていきます。言葉を慈しむことは、子供を慈しむこととも通じているのではないでしょうか。

本読みでは、憶えていてほしい心象風景に、日本のあちこちの昔話を取り上げています。「私が知っている話はこうだった」と、その多様性がまた新しい興味を惹いてくれることを期待しています。

ところで、これは『しょうとのおにたいじ』(稲田和子著、福音館書店)という、さるかに合戦に似た話を読んでいる時でした。ふとこのクラスに生徒を預けて下さっているお母さんの気持ちに、思いをはせた刹那がありました。それで自然と思い浮かんだことですが、このクラスでは、「親子の情」というモチーフを選ぼうと思いました。そしてまた、そのように思い起こさせた生徒たちの顔を「もっと見ながら話したい」と思ったので、最近では『素話』を始めました。

素話には、話の内容を仕込んでおいてから臨むのですが、いざ生徒たちの顔を見ながら話し出すと、何かこちらに「こう話してほしい」というような要求を感じ取ることがあります。それで筋は変わらないにせよ、自然と細部において変わっていくことがあります。そして、これも多様性の一つなのだと思い当たったのが、本を伏せたことによる発見でした。そのように手を加えながら、一期一会の生徒たちとの時間をより濃やかなものにしていきたいと考えています。

一方のBクラスでは、4人の元気な男の子たちと一緒に、『孫子の兵法』を暗唱しています。前に出てきてもらって、詰まらずに言えたら「合格」というのは、私が小学生の頃に国語の時間によくさせられたことですが、今はそれを私がしている番になります。

しっかりと憶えたものは堂々と言えるようになり、あとは減ることのない自信となります。それは私自身もそうでしたが、これからの生徒たちを、いざという時には「ぼくにはこれがあるんだ」と支えてくれることでしょう。「ぼくこんなん言えるんやで!」「じゃあ、これはどうかな?」「すごいやろ?」「おお、すごいな!」と、あたかも言葉を使ったキャッチボールのように感じています。暗唱すると、自分をますます肯定できるようになります。おそらくそれは学び全般の吸収力を上げることでもあるでしょう。

本読みや素話では、鬼や竜や巨人を退治するようなモチーフを好んで選んでいます。たとえば日本のものからは、『酒呑童子』や『地獄絵図』の話を、西洋のものからは『心臓を持たない巨人』や『ジーフリトの竜退治』などを話しました。物語の中の英雄になりきって、「ぼくやったらこうする!」と、怖い気持ち半分、勝つ気持ち半分で聞いてくれています。生徒たちが私の中から話を引き出してくれている部分も多々感じられます。

このクラスの1年生たちは、とにかく元気があります。そこで最近では『推理クイズ』というものをしています。これは、「はい」か「いいえ」で答えられるような質問を生徒たちからしてもらって、答となるシチュエーションを探り当ててもらうという形式のものです。質問をしてくれないのではないかという心配は、どうやら杞憂だったようです。言いたくて仕方がないことをどんどん言い合う、そんな活気があります。それなので、彼らのポテンシャルを引き出すというよりは、もともとあるそれを大人のせいで潰してしまわないように心がけていきたいと思っています。