自分で考える喜び

お昼どき、亮馬先生と雑談をしていました。次のようなことを一方的にしゃべっておりました。いつも聞き役に回っていただき、感謝します>亮馬先生

自分で考える喜びというと聞こえはよいが、これほど忍耐を要することはない。

数学で言えば、10分考えてすぐに答えをみて解法を理解するのも一つだが、それが「喜び」に直結しているかどうか。私の思う「考える喜び」は想定しているタイムスパンがもっと長い。

数学でいえば、解けない問題に出くわしたとき心がときめいてほしい。それこそ「寝ても覚めても」その問題のことを考え続けることが、本当に「考える」こと(に近い)。また、その結果正解を得たときの喜びも大きい。

正解にたどりついたかどうかは二の次で、あきらめずに考え抜くことは、将来自分で問題を発見し、それに挑戦する前段階として必要な精神の修行である。

今の時代、学校で指導する方も、される方も、せっかちに見える。今、山の学校で取り組んでいる「推理クイズ」でいえば、すぐにヒントを求めたがる態度はどうなのか?わからない経験とじっくりつきあう小学生クラスの子どもたちをみていると、頼もしく思えてくる。

国語でいえば、他人の解釈を一生懸命暗記しても何もならない。読書百遍という言葉は真実である。国語ほど「正解」のない科目はないが、教育界はどうしても「正解」を教えないと気が済まない。

100点満点の中で50歩100歩の争いをするよりも、「自己採点で」1万点、100万点!の答案を目指してほしい。英語なら英文でエッセイをかいてみてはどうか。日本で言う英作文とは、他人の書いた日本文の翻訳以上の意味はない。

人間なら、機械が採点できない世界でとことん遊んでほしい(翻訳は翻訳ソフトに任せたらどうか)。国語では本を読み、内容を要約し、添削を受けるといった基本を繰り返し、同時に自分の考えを紙にかいて表現してほしい。

どの科目も、自分で考える喜びとリンクさせるとき、絵を描くのと同じ喜びが手にはいる。そこに勉強の本当のおもしろさはあると思う。大学にはいるまではたしかに「正解」との上手なつきあい方を学ぶのも大事ではあるが、それに終始していてはいけない。

学校が誘導しなくても、山の学校の生徒なら、家で本を読み、日記に感想を書くくらいは朝飯前であってほしい。数学なら、難しい問題に出会って感激してほしい。一つの問題に何日かかっても、考え抜いたプロセスすべてが自分の血となり肉となる。

偏差値に反映しないことは何もしない人間にはならないこと。他人の評価は横へ置き、自分が興味を持ったことに、とことん打ち込むべし。