『山びこ通信』2013年度冬学期号より、クラスだよりを転載致します。

『ことば4年』『ことば5年』 担当:高木彬

息を切らして石段を登る。山の学校に着く。教室に入る。すでに彼は席についている。本を読んでいる。――「没頭」という言葉そのままに。その集中を乱さないようにそっと、私は向かいの席に座る。彼に倣って、読書に耽る。ページをめくる音だけが響く、静かな時間。5分、10分、15分。授業の開始時刻になる。そこで初めてお互いが顔を合わせる。「さて」と一呼吸おく。立つ。礼。「よろしくお願いします」。

彼はいつからここで本を読んでいるのだろう。それを知りたくて、私はいつもより早く教室に行くようになった。本を読んで待っていると、足音がして、彼が教室に入ってきた。授業開始のずっと前だ。「あれ?」彼は私と時計とを見くらべて、そして微笑んだ。彼も静かに本を読みはじめた。

冬の16時。暮れかかった陽射しがガラス戸をとおして教室の中までのびている。彼の片頬が黄金色に染まっている。輝かしい、尊いひととき。もしも時計がなければ、と私は考える。彼はずっと本を読みつづけるのではないだろうか。授業の開始がこの情熱の持続を遮るとすれば、それは矛盾だろう。「始めようか」と声をかけるのを、一瞬ためらう。そのままでいい、とさえ思う。それでも、授業を始める。ミヒャエル・エンデの『ジム・ボタンの機関車大旅行』を朗読する。結局、本を読むことに変わりはない。でも、そこには声がある。そして対話がある。彼は、朗読しながら本当に楽しそうに微笑み、あるいは透明な疑問を投げかけてくれる。たとえばこのように。

第15章。「世界の果て」と呼ばれる砂漠で見た蜃気楼の原理を、年少のジム・ボタンに説明するために、機関士ルーカスは鏡の比喩を持ち出した。「もえるように熱くなると、空気はとつぜん洗面所にあるほんとの鏡みたいになって、なにかをうつしはじめるんだよ。ところがこの鏡ってやつは、近くにあるものをうつすだけじゃない。というより、むしろ、ずっと遠くのものをうつして持ってくるのがすきなんだな」。これをルーカスは「蜃気楼の鏡の間」と呼んだ。砂漠は、「どれが鏡にうつっているもので、どれがほんとうにあるものか、わからなくなってしまう」鏡張りの部屋のようになるのだ。

これを読んだ彼は、「鏡の間の合わせ鏡には何が見えるの?」と言った。彼によれば、合わせ鏡の奥は、いつだって中央に映る自分が邪魔になって見えないのだという。もしも自分が肉体を持たない純粋な「目」になれたら、もっと奥まで見えるのに。そのように彼は言った。あるいは「丸い鏡を内側から見ると、どんなふうになるの?」とも言った。内面が鏡になった球体の中に入ることができたら、そこから何が見えるだろう。彼は2つの可能性を予想した。「自分が縱と横に伸びて、ぜんぶ同じ色になるのかな。それとも、鏡がたくさんの『目』で埋めつくされるのかな」。

物理的には不可能なことを頭のなかで可能にするのが空想の力だ。彼の想像力に、素直に刺激を受けた。お返しに、合わせ鏡については星新一の『鏡』を、球体の鏡については江戸川乱歩の『鏡地獄』を紹介した。それぞれの小説の内容についてひとしきり対話した。彼の顔を見ていたら、あのとき「始めようか」と声をかけて良かったのだと思えた。彼の黙読の時間を貰うだけの価値はあったのかもしれない、と感じた。『ジム・ボタン』も3月には読了しているだろう。一緒に音読し、対話した時間が、現在の彼の、未来の彼の、数多の読書の熱源となりますように。

(高木 彬)

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