『ロシア語講読』クラス便り(2014年2月)

『山びこ通信』2013年度冬学期号より、クラス便りを転載致します。

 

『ロシア語講読』 担当:山下大吾

今学期の当クラスでは、前学期に引き続きロシア詩を読み進めております。前学期はすべてプーシキンでしたが、今学期はレールモントフ、チュッチェフと、いずれもプーシキンと並んで19世紀ロシア詩の世界を代表する詩人たちの作品にも取り組んでいます。受講生は変わらずTさんお一方です。テクストの文法的読解を第一に考え、一通りその作業を終えた後改めて全編を音読し、その詩としての本来の姿を味わうようにしております。

対象のモノクロームの描写と共に浮かび上がる、プーシキン自身の内的な世界。それは物悲しくもやさしく、ほのかな光を放ちながら、私たちの心を慰めてくれます。自らをさすらい人、追われた人と呼び、現世に対する違和感を常に抱きながら、狂おしいまでに自由を追い求めつつ足早にこの世を駆け抜けていったレールモントフ。その詩は、伝えられる彼自身の言動の激しさや投げやりな生き方とは対照的に、一糸乱れぬ美的均整のとれたもので、私たちの心を捕えて離しません。「言葉に言い表された思いなど嘘だ」と突き放し、「黙せよ、身を潜めよ」と自らに言い聞かせながらも、矢張りその言葉の力で万象の底に潜む姿を暴き出し、その美しくも恐ろしい真相から目を離そうとしないチュッチェフ。彼らの描き出す詩的世界はそれぞれ異なりますが、ある透徹した一筋の旋律は常に変わらず我々の耳を満たし、それは皆他ならぬロシア語となって顕示し、結晶しているのです。

教室であるお山の「離れ」に差し込む木漏れ日は、プーシキンの愛したロシアの秋の情景を思い起こさせるに十分で、テクスト読解の良き補佐役を演じております。「月夜の舞台」「夜の詩人」という表現にも見られるように、詩作の時としては夜が適していると言われ、プーシキンもそのような言葉を残しております。この木漏れ日とロシア語の響きに満たされた昼下がりのひと時は、その詩の読解には何よりの時間なのではと思われてなりません。