フランス語講読(クラスだより2012.6)

フランス語講読の様子を山びこ通信(2012年春号)より転載いたします。

 『フランス語講読』 (担当:武田宙也)

フランス語講読では、今学期も引き続きダニエル・アラスの『絵画のはなし』を読んでいます。去年の秋から読み始めた本書ですが、数ヶ月にわたってゆっくりと読み進めるうちに、はじめはぼんやりとその輪郭がつかめるのみであったアラスの思想も、だんだんと身近に感じられるようになった気がします。

芸術作品は、「現在それが存在しているところの時代」と「それがつくられた時代」という二つの時代のあいだに流れた時間を、痕跡として留めるものです。それは、時間とともに作品に刻まれた汚れや傷みであり、あるいはまた、歴史の中で作品に注がれてきた数多くの眼差しです。二つの時代のあいだに流れた時間を、アナクロニズムの立場から重要視するアラスは、これらの痕跡こそは、芸術作品がこれまで生きてきた証であると考えます。

このように、芸術作品の生を人間の生と同じように考える立場からするならば、たとえば作品の経年変化を人為的な介入によって修復し、その「オリジナル」の姿を復元しようとする欲望には、一定の留保がつけられるかもしれません。それは、作品を「それがつくられた時代」へと無理矢理もどすことによって、それが生きてきた歴史を、ひいては作品の生そのものを否定することにつながるかもしれないからです。このように、アラスのいうアナクロニズムは、たんなる抽象的な理論というだけではなく、芸術作品の修復といった具体的な問題にも、一考に値する問いを投げかけるものなのです。 アラスは本書のなかで、ひとつの考えを、さまざまな具体例を挙げながら繰り返し説いています。それが、美術史におけるアナクロニズムの重要性です。アナクロニズムとは、さまざまな時間が混ざりあう事態であり、また、そうした時間のあり方として歴史を捉えることです。たとえば、わたしたちが、自らの生きる現代という時代に思いを馳せるとき、それは往々にして、わたしたちの来し方行く末についての思いへとつながっていくでしょう。

このようにわたしたちは、「いま」という時を、歴史の流れから切り離され、それ自体独立したものというよりもむしろ、つねに過去や未来とのつながりのなかで捉えているように思われます。実際、こうした歴史観は、さまざまな宗教的行為を含む、日常的な儀礼のなかにも認められるものでしょう。アラスの場合、とりわけ過去と現在という時間の混交としてのアナクロニズムを、美術の歴史へと投影していくことになります。

 (武田宙也)