今号の山びこ通信(2013/11/1)から、クラスの様子をご紹介します。(以下転載)

『ことば4年・5年』(担当:高木彬)

前号の『山びこ通信』では俳句づくりのことを主にお伝えしました。そこでも予告しましたように、現在、私の担当することばクラスでは、俳句づくりに加えて、ミヒャエル・エンデ作『ジム・ボタンの機関車大旅行』(上田真而子訳、岩波書店)をこつこつ読み進めています。

フクラム国という小さな島国に届いた謎の赤ん坊が、ジムと名づけられて少年となり、機関士ルーカスや機関車エマとともに海の向こうへ冒険に出かける。たくさんの不思議や驚きが散りばめられた宝石箱のような物語です。この物語は冒険譚なので、物語の筋がそのまま冒険の道筋と重なります。だからでしょうか、結構分厚い本なのですが、あまり複雑な文脈を追わなくても読み進められます。生徒さんたちも気負わずに、毎回読むのを楽しみにしてくれています。まるで自分たちも機関車エマに乗って大旅行をしているかのように。

また、合わせて物語の創作にも取り組んでいます。『ジム・ボタン』は、創作の刺激になるようなアイデアにあふれたファンタジーです。それを栄養としながら、こちらもやはりこつこつと、書き進めています。いつ終わるとも知れない長大な物語が生まれつつありますが、その完成した内容については、続報をお待ちください。

また、秋学期からは、これまでの金曜日クラスに加え、新たに火曜日クラスが誕生し、私が担当させていただくことになりました。こちらはいまのところ4年生のY君とのマンツーマンです。しぜんクラスなどで「虫博士」として有名な、あのY君です。昨年度までは私もしぜんクラス担当の一人として、昆虫のことをはじめ、Y君からたくさんのことを教わりました。今年はこういうかたちで再会できて、とても嬉しいです。

Y君のクラスでは、まずは詩の朗読をしています。意味の読解は後まわしにして、声を出して読みます。代わる代わる順番に読んだり、二人で声を揃えて読んだりといったことを、時間をかけて繰り返します。さて、いったい何のためだと思われますか? おそらく進学塾ではあまりこういうことはしないでしょう。すぐにはテストの点数に結びつかないからです。

しかし、こうして朗読しているうちに、身体が、言葉の持つ音とリズムになじんでいくのが分かります。それは歌を歌う心地よさに似ています。頭が詩の意味を理解するよりも前に、身体に詩が勝手に浸透してくる。一緒に歌を歌えばそれだけでどことなく気持ちが通じるものですが、同じように、詩を一緒に朗読することは、一種の身体的なコミュニケーションでもあります。クラスの初めにY君と二人で朗読する時間は格別です。だんだんと心が静まり、ことばの世界に浸る準備が整います。いつもそこから『ジム・ボタン』を読み始めます。

こうして身体が言葉になじめば、こちらが強要しなくても、自ずと詩の意味にも興味がわき、自分で考えたくなるはずです。もちろん、要所要所で導きの手は必要ですが、少なくとも、こちらが教え込んだ詩の意味を丸暗記するような不毛な作業にはなりません。反対に、最初から詩の意味を謎解きのように細かに講釈してしまうと、詩が、なんとなく疎ましく煩わしく感じられて、次第に心は離れていってしまうものです。あまり口出しせず、ただシンプルに一緒に朗読し続けること。時間はかかりますが、これが詩の言葉と親しむ最良の道です。その道の先には、きっと将来の本好きの自分がいるはずです。

ある日、いつものように詩の朗読を終えると、Y君が「でも、どうして人間は体が黒くならないのかなあ?」とたずねました。「人間はいろんなものを食べるから、色が混ざって黒くなるはずなのに」。その日は、金子みすゞの「不思議」を朗読していました。第2連には「私は不思議でたまらない、/青い桑の葉たべている、/蚕が白くなることが。」とあります。おそらくY君はここに反応して、頭のなかで「どうしてなんだろう」と考えてくれていたのでしょう。

私はそのとき心のなかで「しめた」と思いました。Y君が「虫博士」であることを想定してこの詩を選んでいたからです。そして、こういうときに私が肝に銘じていることは、大人の知識で安易に「正解」を与えてしまわない、ということです。彼の「どうして」という探究心を、それっきりにさせないためにです。だから代わりに、「アゲハチョウの幼虫の場合はどうかな?」とたずねておきました。この瞬間が、将来の探求と読書の種の一粒になることを願って。

(高木 彬)

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