「古今東西」という言葉があります。日本人にとって最もなじみの薄いのが西洋の古典(クラシックス)ではないでしょうか。ここで言うクラシックスは音楽のクラシックのことではありません。クラシック音楽なら幼稚園の子どもでもピアノを習って親しんでいます。他方、西洋文明のバックボーンをなすクラシックス、すなわちギリシャ・ローマの古典に我が国の教育は無関心を決め込み、子どもたちが学校で接する機会は皆無に近い状況です。

一例として、プラトンやキケロの翻訳を読んで議論する機会が学校で用意される世の中になればと願います。これらは西洋の古典であると同時に、人類の古典でもあります。それが難しいとしても、せめて国を代表する政治家を目指す若者には、西洋古代の哲人たちが国家について何をどう考えどう論じたか、真摯に学んでほしいと希望します。

民主主義にせよ、学問や教育のシステムにせよ、そのルーツがギリシア・ローマの古典精神に遡ることは自明ですが、我が国は「和魂洋才」のスローガンを墨守するかのように、今も「洋魂」の根っこを学ぶことなくグローバル化に対応しようとしています。その結果、為政者によって場当たり的な「改革」のスローガンが繰り返され、現場は無数の介入によってかき乱されています。明治開国以来、西洋の「今」を切り花のように輸入し近代化を急いだつけを払うかのように、前代未聞の非常識が連日のように新聞を賑わせています。

日本は自国のことだけを考えてよいわけではありません。地球の未来、人類の未来に責任を持つために、急がば回れ、今こそ西洋文明の「花」を養う「土」の部分にも目を向ける必要があるでしょう。法律、政治、教育、その他西洋を手本として取り入れた諸制度の根幹をなす精神にふれることなく、私たちはこの国の未来を語ることはできません。

たとえば、「なぜ学校はあるのか?」と子どもに問われて答えに窮することがあるかもしれません。ギリシャ・ローマの精神に照らすなら、人間を作り、市民を作るため、言い換えるなら、民主主義を支える主権者を作るため、となるでしょう。けっして、立身出世に役立てるため、といった個人的理由で公教育が用意されるわけではなく、ましてや為政者に従順な「人材」を生み出すために学校があるのではありません。

「和魂でじゅうぶん」。社会にそうした偏見が満ちるとき、世の中は閉塞感に包まれます。そこに風穴を開け、自由の空気が通うよう窓を開けるためにも、日本の今を生きる私たちが、西洋の古典精神にふれることには大きな意義があるでしょう。相手を礼賛し己を卑下するという明治風のやり方ではなく、己を照らす確かな鏡を持つためにそれは必要です。その結果として、真理と自由が尊重される社会が今までにもまして子どもたちの未来を明るく照らすことを心から願います。

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