「西洋の児童文学を読む」受講生募集中!(その1)

福西です。

『西洋の児童文学を読む』のクラスは三つありますが、そのうち、Bクラスが『モモ』を読み終わります。

次のテキストは、『トムは真夜中の庭で』(フィリパ・ピアス、高杉一郎訳、岩波少年文庫)です。

2021年6月18日から読み始める予定です。

主人公のトムは、弟のはしかのせいで、おじさんの家に隔離されます。

それを「つまらないし、腹が立つし、さびしい」と感じます。

その感情が引き金となり、生じるのが、ファンタジーという出来事です。この物語では、タイムスリップなどの時間のファンタジーです。

ファンタジーと聞くと、頭で作った空想だと思われがちです。しかし本当のそれは、頭ではなく、心でねじを巻く必要のあるもののことです。

主人公にはれっきとした悩みがあります。これは現実です。しかし人には言えません。これも現実です。そもそも悩みをうまく言葉にできないので、自分の心にも面と向かって呟けません。何となく日常を、ごまかしながら生きています。そのうちに主人公の心の底から欲する「何か」が、否応なく大きくなり、心の蓋で押さえきれなくなります。主人公を越えて、凶暴化することさえあります。かといって、主人公にとって、その真に欲する「何か」は、日常を越え、言葉を越えたところにあります。だから主人公は、それを得ることを(そして二度失うことを)、「ファンタジー」として体験せざるを得ないのです。(作者はファンタジーで書かざるを得ないのです)。

そういう必然的な非日常のことです。それと付き合うことには、本来、危険がつきもので、そのふちのぎりぎりまで行って帰ってくることには、自分自身(精神)に対する責任が生じます。エンデの『はてしない物語』がそうでしたし、『トムは真夜中の庭で』もそうです。

トムが体験した時間。失った時間。永遠というもの。

『モモ』で時間のことをテーマに読んできたクラスとして、引き続き、おすすめの児童文学作品です。

 

児童文学は、その時にだけでなく、あとで思い出して、癒しとなることがあります。

いまはコロナ禍ですが、十代の読者にとってそうなればと願います。

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