2/1 歴史入門(高校)

岸本です。

今回はウィーン体制の動揺とその崩壊をメインに話し合っていきました。

ナポレオン戦争後のヨーロッパを元に戻して現状維持し、大国同士の勢力均衡を図るのがウィーン体制です。
しかし、フランス革命やナポレオン戦争に影響を受けた自由主義やナショナリズムの運動が各地で見られました。
それらは当初オーストリアやフランスに鎮圧されますが、ラテンアメリカ諸国の独立やギリシアの独立が生じたことで、ヨーロッパの周辺からウィーン体制に綻びが見え始めました。
そして、フランスの七月革命やその影響によるベルギーの独立、イギリスでの自由主義的改革は、ウィーン体制が西欧では有名無実化していったことを示しているでしょう。

その中、各国の産業革命の進展に伴い、社会主義思想も広がっていきました。
1848年には、現代でも大きな影響を持ったマルクスとエンゲルスが『共産党宣言』を出版しています。
生徒さんとはマルクス主義の思想を、簡単にですが概観することで、なぜマルクス主義が近年まで力を持っていたのかを話し合いました。
その一つが、社会主義への移行が歴史の必然であるということを理論的に示したことがあります。
実際にソ連が成立したことによって、その影響力はさらに拡大したでしょう。
ただ、生徒さんはマルクス主義が衰えたことにも興味をもち、同じ社会主義国の中国とソ連が対立したことやソ連の崩壊を挙げてくれました。
かつて日本では社会党が大政党であったにもかかわらず、現在では小政党の一つになったこともそうしたことと関連しているでしょう。
細かな点は、第二次世界大戦後の議論で行うことになりますが、思想がその時々の世界情勢に影響を与え、それが思想の盛衰にも跳ね返るという流れが見えたことは、良かったと思います。

その科学的社会主義が生まれたと言っていい1848年には、フランスで再び革命(二月革命)が起き、七月王政が倒され、第二共和政が誕生します。
ウィーン体制の強国の一角で王政が倒されたことは、すぐさま影響を及ぼします。
ドイツやオーストリアでも三月革命が生じ、各地で反乱がおこりました。
ウィーン体制の代名詞たるメッテルニヒは亡命し、ドイツではフランクフルト国民議会でドイツの統一が話し合われました。
この三月革命は、パリで労働者が起こした六月暴動とその鎮圧によって、各地で反動化が生じて鎮圧されますが、現状維持を掲げるウィーン体制は、これによって事実上崩壊しました。

現代の国民国家につながるナショナリズムを抑圧した点で、ウィーン体制は否定的な意義づけがなされますが、大国の支配の下ではありますが、平和を実現した点は見逃せません。
また国家を超えたまとまりという点で、現代のEUの先駆ともいえるかもしれません。
そのウィーン体制の崩壊したヨーロッパは、再び戦争の時代に突入し、再編されていきます。
来週はそのヨーロッパ再編を見ていきたいと思います。