ことば1~2年A(0610)(その2)

福西です。

後半は、作文をしました。自分がいま興味を持っていることを書きとめてもらいました。以前、M君には『ほねのこと』を書いてもらいましたが、今回はRちゃんも一緒の二人の記録です。


Rちゃんの文章です。

『なわとび……』(ダブルダッチ)
二本のなわをじゅんばんにまわしてとびます。入ってとぶところまでできます。出るところまではできない。ふつうの大なわのさいこうは343かいです。おかあさんと先生がまわしてくれました。

前半はRちゃんの小学校での、後半は幼稚園での思い出です。できたことと、これからのことと。行間では一輪車の話もしてくれました。ダブルダッチの話の後に、一見唐突に「ふつうの大なわ」の話が始まっているように見えますが、Rちゃんの中では連続性があります。課題を見つけてそれに向かっていく力を、思い出から得ようとしていることがうかがえます。

343という数字は、今も覚えているそうです。その時なわを回してくれたのがお母さんというのは、保育参観か何かの時でしょうか。途中で引っかかった人は座って応援しているのですが、一生懸命跳んでいるRちゃんには、「その周りの声が聞こえなかった」そうです。

『一りん車』

さやちゃんは一りん車が上ずです。グランドのはしっこからはしっこまでできます。グランドのはしっこでもまわってもどってきます。わたしのいえには黄色い一りん車があります。ときどき家のまえのみちでれんしゅうをしています。でもまだちょっとだけしかのれないのよ。ときどき学校のグラウンドでも一りん車のれんしゅうをしています。

「自分」と「他人」という観察。一輪車はあこがれの対象でもあり、また自分がまだそうではないというギャップを知る機会でもあります。他人を称揚している自分と、そこに投影しきれない自分と、その間に複雑な気持ちを映しながら書いているようでした。

けれども、「でもまだちょっとだけしかのれないのよ」という一行には、「これは私の文章なのよ」という、Rちゃん独自の「サイン」が見て取れます。「ときどき」という表現が繰り返し出てくることにも、負けず嫌いな、でも恥ずかしがり屋な、Rちゃんのはにかみを感じます。

こちらは、M君の文章です。

『だんごむし』

だんごむしはコンクリートをたべます。ふゆはつちのなかでねます。

だんごむしはじぶんのだっぴのからをたべます。

だんごむしをてでつかむと、まるまります。だんごむしはかれたはっぱをたべます。わらじむしはだんごむしに、にているけどまるまりません。

だんごむしをメスとオスにわけるときはそっとてでつかんでひっくりかえすと、しろいてんがあるほうがメスです。だんごむしをてにのせると、くすぐったいです。

M君には、「書きたい」と思ったことを頭の中から取り出そうとしている時は、「それ以外のことを考えない」という徹底ぶりがうかがえます。M君のような迷いのない書き方が、私には羨ましく思われました。脱皮した後その殻を食べることが、M君にとって一番伝えたい自身の驚きだったようです。目を大きくして「~なんだよ!」と教えてくれました。最後の「てにのせると、くすぐったいです」が、前作の『ほねのこと』のしめくくりを連想させました。M君の文章には、ユーモアがありますね。

実はごく最近、学校でも一度、同じテーマで書いたことがあるそうです。「先生にあげる」と言って、それをわざわざコピーして持って来てくれました。ですので、そちらも併せて転載いたします。

だんごむしはコンクリートをたべます。つかまえると、まるまります。ぼくはだんごむしがだいすきです。ふゆはつちのなかでねます。だんごむしはじぶんのだっぴしたあとのからをたべます。なぜだっぴをたべるのかそれはだっぴはえいようがいっぱいあるからです。

たとえば芭蕉の句集を見ていると、「はせを」とあったり「芭蕉」とあったり、同じ句のバリエーションが目につきます。詩聖でも私達と同じように、言葉を変えて何度も句をひねっている様子が、作品として残されていることは、感慨深いことだと思います。

M君の書き残してくれた上の二つのバリエーションにも、いつかそのような意味合いが出てくるのだろうと思って、両方大事にしたいと思います。

残りの時間は、約束通り以前とルールを変えて、『ぼうずめくり』をしました。