温故知新のスピリット

雑談というか、この3ヶ月をふりかえっての感想を書きます。

山の学校は開設して6年目です。ラテン語を教えるという看板は、最初から掲げています。なぜラテン語を?という人は多いのですが、まってました!という人も中にはいるに違いないと思っていました。

おかげで今は当初予想した以上に多くの方が学んでいます。嬉しい誤算でした。私は会員がゼロでも看板はおろさないつもりでした。「ラテン語を学ぶ」というのは、私にとっては一つのメタファーでした。

日本中どこにいっても、駅前には英会話を教える学校が乱立しているのですが、そういう実利を求める――それはそれで大切ですが――のとは一線を画した「無用の用」を解する人たちに向けて何かメッセージを投げかけたい、という思いが強くありました。

山の学校では、すでに何度も実施してきた「ラテン語の夕べ」ですが、いずれ「ギリシア語の夕べ」も「古文の夕べ」も「漢文の夕べ」もやる予定です。今年から、ラテン語以外の古典語も開講できるようになりましたので。

辞書を引き、じっくり予習をする。授業中に自分の訳を発表し、他のメンバーの解釈と照らし合わせ、先生の解釈とつきあわせる。

教えていても、学んでいても、実感するのはまさに「論語」の冒頭の言葉でしょう。

子のたまわく、学びて時にこれを習う、またよろこばしからずや。 朋遠方より来たるあり、 また楽しからずや。 人知らずして慍(うら)みず、また君子ならずや。

最後の「人知らずして・・・」は泣かせます(笑)。ラテン語を日本で学ぶとき、この台詞は心強い味方ですね。

長々書きましたが、私が山の学校を通して世に伝えたいのは、本当はラテン語の問題ではなく、この論語の言葉に凝縮された「学びの楽しさ」、「温故知新」のスピリットと言えるでしょう。

役に立とうが立つまいが関係ないところに成立する「無心になって学ぶ心」は年齢を問わず尊いです。ラテン語を教え、学ぶとき、わたしたちはこのことをいつも実感します。

それを実感できる科目は、ラテン語でもギリシア語でも徒然草でも、老子でも、数学でも、何でもよいと思います。じっくり取り組み、考察を深めるに値する対象であるかぎり、私にはみんなウェルカムです。今、小学生から大人まで、そういうクラスがずらりと勢揃いした感があり、嬉しく思っています。