君子は器ならず

山下です。雑談です。

ちょっと時事的な問題で恐縮ですが・・・。

履修科目の偽造問題について、信じていた何かに裏切られたような気持ちを覚えます。

「背に腹は変えられない」と言う意見には、耐震偽造事件と同じ精神構造を見る思いがします。

根っこには入試制度の問題があります。

私の提案と意見は次のとおり。

1)センター試験では「すべての教科」を選択させるべし。世界史も、日本史も、地理も、公民も、政治経済も全部勉強すべきで、受験もすべき。物理も、化学も、生物も、地学もどれも大切。

受験生に部分的に科目を選択させると、この科目は「捨てる」という言葉が平気で使われる。

2)ただし、センター試験対策などをしなくてすむ高校入試レベル程度に問題を平易にする。たとえば9割以上で大学受験の資格があるとするなど。京大理学部はそのような発想。

3)2)はなぜか?というと、「今の大学生はこんなことも知らない!」などといわれる現状があるからで、言われたくなければ上述の「新センター試験」で9割キープすべき。特別な「入試対策」は不要のはずで、地方で予備校がないから不利とか、そんな話はない。

ただし、どの科目についても「これだけは最低限の常識」といえるものを問題として並べ、それについての知識の有無をチェックすればよい。

4)勝負は二次試験で決める。論述問題が中心となる。経済的観点から見ると、採点する側は大変でしょうが(労多くして利益少なし?)。

#ちなみに、時間がとてつもなくある人は、「勉強とは何か?」と題する私の大学での講義録をお読みください。90分ほどの内容です。

このような理想論を言っても「勝てば官軍」と反論する大人、学生、教師が多いことを知らないわけではありません。事実、わが国は明治開国以来、どのような態度でヨーロッパの文明、文化に接してきたのだろう?「試験に出る科目」にフォーカスし、手っ取り早く「成果」をあげようと国を挙げてやっきになったのでは?

個人に話を戻すと、結局のところ、古来「君子は器ならず」と言いますし、「大器晩成」という言葉もあります。幼児期にたっぷり心の栄養を吸うことがすべての基本であり「幼児期の遊びの達人」こそ、「自ら学ぶことの達人」に成長するのだろうと私は信じるのです。

小学生以上なら、遊びと並んで読書が大事。

ところで、「勝てば官軍」と誤解する人たちに言いたいことは、大学に入って自分が何をすればよいのか?何をするためにここにいるのか?途方に暮れる学生が量産されている現実があるわけで、その原因はどこにあるのか?考えてほしいということ。

もちろん、このことについては、合格者の数=よい高校(予備校)という発想もさもしいわけであるが、なぜかくも薄っぺらな知識しか持ちえない生徒を自分の大学に入学させるのか?という意味において、大学の責任も大きいといわざるを得ないわけです。

年々学生のレベルが落ちている(事実です)と舞台裏で文句を言うのであれば、「今年は不作でした。定員どおり生徒をとりたかったのですが、半分しかよい生徒はいませんでした。」と言うせりふを聞いて見たい。