7/8 ことば高学年(作文)

高木です。

先週完成した「言葉のスケッチ」が、いったい何をスケッチしたものであるのかを、ご両親に問いかけてきてもらったのですが、今日K君にその結果をきいてみると、残念なことに、それが何であるか当ててもらうことはできなかったそうです。

それは、精密な描写が、それが精密であればあるほど、必ずしも「当て物」に向くわけではない、ということへの配慮を欠いた私の責任であり、K君やご両親に申しわけなく思い、その点についてクラスの終了後に謝罪いたしました。

いま考えれば当然のことでした。もの、そのものを精密に描写し、名前に頼らず描写のみで物体を立ち上げていく作業は、名前というラベリングに隠された要素を暴いていくことでもあり、結果として、当てようとしている名前を超えていく過程なのですから。
したがってクラスでは、むしろそれほどまでに精密な描写ができていることについて話し合いました。K君は、驚くほどの緻密さで、そのものの名前を呼ばずにそのものを記述することに成功したのです。

振り返れば、最初にケーススタディとしてとりあげた谷川俊太郎の文章でも、結局彼が何という名前の物を描写していたのかは、K君や私に分からなかったのです。そして、むしろ名前という限定から解放された記述が、様々な想像を喚起し、連想を膨らまさせることこそが、谷川の目論むところであったのも、すでに確認していました。「言語によってそのものを記述する行為に、或るささやかな聖性を与えたいと望んでいて、私は一種の禁欲を自らに課さざるを得ないと感じている。(略)そのものの固有の名前を私はもとより熟知している。その名をあえてここに記さぬのは韜晦からではない。それこそが一篇の主題であるからに他ならない」(『定義』)。こうした記述を、K君自身も実践していたのです。

K君がスケッチしてくれていたのは、実は「顕微鏡」でした。かなり複雑な形状をしており、どこからどのように記述するべきか、見守る私には多少の不安がありましたが、最初にK君が「全体的に習字をしてる人の形に似てる」と言ってくれたときに、そのような不安は吹き飛びました。もはやそれより他にないくらい的確な比喩が出てきたところから、あとは頭、脚などに分けて、記述を重ねていけば良いわけですから。

さて、夏休みの宿題には、物語を書いてきてもらうことにしました。作文の中でも、日記と物語には、長い時間が必要だからです。日記は既に小学校の宿題として出されているということだったので、このクラスでは物語の宿題を出すことにしました。
そこで、「言葉のスケッチ」についての話し合いを終え、文章表現の技術的な側面からのチェックを済ませたあと、物語を書くことへのきっかけとして、マザーグースの『お話』を読みました。

    お話
       
  ジャック・ア・ノウリの
  話をしたげよ。
  これが話のはじまりだ。

  ジャックの弟の
  話をしたげよ。
  これが話のおしまいだ。

たったこれだけの文章です。なぜそこに『ハンプティ・ダンプティ』でも『メリーさんの羊』でもなく『お話』としかタイトルが付いていないのかと言えば、そのお話は読む人が創るお話だからです。読む人によってそのタイトルが変わっていくからです。「話のはじまり」と「話のおしまい」の行間に拡がる、K君が想像するジャックの物語を書いてきてもらう、ということで創作の導入に代えました。
また秋学期に元気な顔を見るのを、楽しみにしています。