ことば3年C

 『藍より青し』

 福西です。今までブログで逐次授業の様子をお伝えできず、申し訳なく思っています。ここでは現在執筆中の山びこ通信では、紙面の都合で割かざるを得なかった部分を抜き出して書こうと思います。

 この時期になると、いつも無性に思い出される言葉があります。「秋の日はつるべ落とし」ということわざです。六時半はとうに、五時すぎに終わるクラスでも、山の下に生徒たちを連れて下りる頃には、もうすっかりあたりは薄暗くなっています。毎週のように、昔の人は「言い得て妙」だと実感します。

 山の学校を下りていく道の途中には、いったん空がひらけて見える場所があり、京都の街並と山の連なりの上に、まだかろうじて残る茜色を目にします。

 どこからかお決まりの烏の鳴き声がして、生徒の中から誰ともなく、「最近、暗くなるのが早くなったなあ」とつぶやく声がします。それと符合して、先のことわざが、私の口を突いて出てきます。

 と、「つるべ」の説明を要し、私は小学生の頃に読んでいたことわざの本で、腑に落ちたことを思い出しながら、伝える機会がありました。
 手を離すとすぐに落ちてしまう、井戸の水汲み桶──現代の都会では目にすることのなくなったそれを今の暮れ時に重ね合わせることは、生徒たちの逞しい想像力にかかればそれほど難しいことではないようでした。それだけ色々な事にアンテナを張っているのだと思いました。

 それが、手を離せば、私よりも先に道を下りていこうとする生徒たちのことを、頼もしいと感じた刹那でした。

 さて今学期は、本読みのほかには、ことわざと暗唱をしました。暗唱では、『孫子の兵法』の中から「風林火山」の部分を、またそれにちなんで頼山陽の漢詩を紹介しました。

 後者は川中島の戦いを題材とし、「鞭声粛々 夜河を過(わた)る」という詩句で始まりますが、生徒からは「漢字が川ではなくて河になっているのはなぜ?」という鋭い質問がありました。そこで、川幅が広い場合には河をあてるのだといったん答えたものの、ふと私もなぜだろうかと思いました。 
 日本のそれは中国の大河とは違って、実際には広くなどないからです。漢詩なので「格好をつけて」ということなのかもしれません。ならばいっそ、上杉謙信がどういう思いでその川(千曲川)を長く感じて、静かに渡ろうとしたのかを代弁しながら、暗唱の際のイメージを膨らませてもらいました。

 漢詩が出てきたところで、次は中国の故事に由来する、ことわざを取り上げました。これは、手本となるべきものの価値を忘れがちな現代において、古典にぜひ興味を持ってほしいという意図があってのことです。最初の「あ」では、『荀子』の冒頭の「藍より出でて藍より青し」を紹介しました。「出でて」は、原文では「取りて」とあり、またそれにも下敷きとなる文献があるそうですが、そのあたりは生徒たちが本当に興味を持った時に自分自身で調べてほしいと願っています。

 荀子は、性悪説という言葉の響きが誤解の種ともなっていますが、実際には、「自分の性質にもし嫌なところがあっても、学ぶことをやめなければそれを変えることができるのだ」という、人が教育によって生まれ変わる可能性を信じた言葉をたくさん残しています。先のことわざでも、普通、オリジナルの藍の方が立派だと思われるところをひねって、藍には足されなかった教育の分だけ青の方が立派になれるのだ、また藍はそのことを誉れに思うのだというのは、素朴なまでの逆説です。

 このようにことわざには、逆説で事実をあらわそうとするものが多くあります。今三年生の生徒たちは、おそらく家でも学校でも、遠く世の中においても、多くの矛盾を感じ取っていることと思います。そんな時、「言い得て妙」な表現に出会うと、あたかも知己を得たような気持ちになるのではないでしょうか。私自身はそのように感じて、三年生の頃ことわざ事典に首っ引きになっていたことを思い出すとともに、生徒たちにも、言葉における真の友人を増やしてほしいと願っています。

 ただ最近では、こうした取り組みが知識の授受に終わらないよう、素朴なお話作りの時間も設けています。というのも、「学びて思わざれば則ち罔し」と感じられることもあるからです。もちろんその逆の「思いて学ばざれば則ち殆し」も言えるには違いないのですが、そのバランスをどのように取るかは、いつでもクラスの課題です。そこで、作文用紙を通して生徒たちからじかに発信される言葉も聞こうと思いました。

 お話作りは、たいていは三十分の即興で終わることが多いのですが、中には思わぬ長編が生まれ、二週にまたぐこともあります。最初はうまくいくかどうか分からなかったのですが、書いてもらうと、意外とすらすらと書き始めてくれたことに、まず驚きました。(私はきっと彼らは恥ずかしがって書くのを嫌がるだろうとばかり思っていましたが、大いに見誤っていました)。その点では、生徒たちはさすがだと感じ入りました。そして、実際にできあがった文章を見せてもらうと、ますますその驚きは大きくなりました。
 
 本当は全員の作品を紹介したいのですが、ここでは一つだけ、Hちゃんの作品をご紹介します。

『クリスマスのプレゼント』

 きょうはクリスマスの朝です。
 あさ、みみはおきると、プレゼントを見つけました。みみは、
 「やったプレゼントだ」とみみが言いました。
 そのプレゼントはふでばことリュックでした。
 ママとパパとあやとはーちゃんに見せました。みんな「すごい」と言いました。
 サンタさん「ありがとう」、「とってもありがとう」とみみがいいました。
 あやはふくセットです。
 はーちゃんはなんでしょう。
 それはシールセットです。よろこんでいました。
 ママとパパも「よかったね」といいました。

 三十分の即興で書いてくれた文章です。「はーちゃんはなんでしょう」という話のつなぎ方には、Hちゃんがいつか本を読んでいて、そのような書き方に出会ったことが分かります。家族構成がしっかりと頭に入っていて、それをまるで写真を見ているかのように頭の中から取り出して書いているところがすごいです。またサンタさんに「ありがとう」、「とってもありがとう」と感謝するあたりには、今だからこそ書けるその純真さに感じ入りました。もうすぐクリスマスの時期であることを、去年の思い出を通して、今から期待しているのかもしれません。

 もしお話作りの時間を設けなければ、このような生徒たちの持つ可能性に気付かなかったことを考えると、「思う」ことも「学ぶ」ことと同じく大事だと気付かされます。また作文用紙を通して生徒たちの声を「聞く」ことの意義深さを改めて思い知ります。その内容が私の想像をいつでも抜け出していることに、生徒は決して先生のコピーではないことに気付かされます。

 まさに「藍より青し」だと思います。