0928 英語講読(J.S.ミル『自由論』)

今回も丁寧に原文を読みました。

 

キリスト教が例示されるのですが、初期の迫害され反論する必要に迫れる時期は生き生きとした信仰が維持されるのに、その考えが広まって反論されなくなるにつれ死せる教義となってしまうというのがここしばらくの議論です。ことわざのような生活に関わる事柄も、体験するか真剣な議論を聞くかしなければ、その意味を十分に体得するということにはならないと主張されます。

 

もしそうだとすれば、ある考えが同意を獲得すればするほど死んだ教義になってしまうという皮肉な状況になってしまうので、教師には工夫が求められます。その工夫の代表がソクラテス的な対話術であり、中世の(教会)学派で行われた自分の論と反対論を徹底的に学ぶやり方です。ところがそのどちらも現代ではなされていないとミルは嘆きます。ソクラテスの対話術は相手が信じているといっているものをそれほど強固に信じていないことを露にするような否定的な議論であり、現代ではそうした否定的な議論が蔑まれているのがその理由だそうです。時代は200年ほど下りますが、政治家が「対案を出せ」とばかり言うような日本の現状にも同じことが当てはまると感じました。ミルの主張によれば、自己の意見を強固にしてくれる反論に感謝すべきということになります。

 

これまでは二つの対立する意見のどちらかが100%の真実だという過程で論が進められてきましたが、ここからはそれぞれが真理を分有しているというより現実的な仮定に移ります。その例としてルソーが出されます。文明礼賛一色の中で文明批判をしたという点です。

 

今回はこのあたりで終わりになりました。