1999.4.17 

『アエネイス』における絵画的表現

---第一巻四二六行の解釈をめぐって---

ギリシア軍に破れ、トロイアを脱出したアエネーアース一行は、嵐によってカルタゴに流れ着きます。アエネーアースは不安におののく部下たちを励まし、忠実なアカーテースとともに見知らぬ土地の調査に乗り出しますが、途中ウェヌスに出会い、カルタゴ建国に関する一種の縁起物語を聞かされます。

これに続く場面が<資料1>にあげた箇所です。ここでは、アエネーアースとアカーテースの目に映ったカルタゴの町の様子が描写されています。 

この間(かん)、アエネアスとアカテスは、目の前の道のさし示す方向に急いだ。彼らは、大きな塊(かたまり)として町にせり出している丘に登り、そこから正面に見える城塞を見下ろした。アエネアスはその巨大な姿-かつてはほんの小さな小屋の集まりに過ぎなかった-に驚いた。彼は、城門、道のにぎわい、舗装された道路のひとつひとつに目を見張った。テュルス人たちは熱心に仕事に取り組んでいた。ある者は城壁を築き、砦(とりで)をつくるため、手をつかって石を転がしていた。ある者は住居のための土地を求め、畝で境界線をつくっていた。 彼らは法を定め、行政官を選出し、神聖な元老院を置いていた。こちらではある者が港を掘り、あちらでは別の者が劇場の基礎を地中深くに据えていた。彼らは巨大な柱とやがて舞台に使われる背の高い装飾物を岩石から切り出していた。

このうち四二六行目のiuraで始まる一行、すなわち、「彼らは法を定め、行政官を選出し、神聖な元老院を置いていた」という表現は、詩人の生きたローマ時代の政治用語を用いていることなどから、この場にそぐわない場違いな表現であるとの指摘が行われています(オースチン等)。

本日の発表は、この表現に関して、<資料2>に提示した第一巻の構成の特色と、「カルタゴの町の描写」に見られるエクフラシス的要素の二点に着目することによって、新しい解釈の可能性を検討しようとするものです。

まずはじめに、「カルタゴの町の描写」にエクフラシスの技法が用いられている点を明らかにしたいと思います。逸身喜一郎氏によれば、エクフラシスとは、「実際の作品ならばとても制作不可能な細かい表現を有する、仮想の図像表現の、ことばによる「精緻な表現」である」とし、例として「イリアス」第18巻のアキッレウスの盾の描写を紹介しています。ウェルギリウスは、「アエネイス」第8巻のエピローグで、この盾の描写を模倣していますが、このほかにも、第一巻の「ユノの神殿の絵」や第六巻のエピローグ、すなわち「英雄のカタログ」と呼ばれる箇所も、エクフラシスの技法が認められる箇所として、多くの研究者の注目を集めて来ました。

さて、第八巻の「ヘルクレス-カクス・エピソード」の導入部もエクフラシスの技法が用いられる箇所として指摘できます。<資料3>をご覧ください。

エウアンデルは、目の前の風景の一つ一つを指さしながら、ヘルクレスをたたえる祭りの起源をアエネーアースに紹介していきます。この中で用いられる「見よ」(190 aspice)という言葉は、「アエネイス」のエクフラシスに頻出する言葉とみなされます。(第6巻エピローグとの関連を指摘)。一方、今日の発表で扱う「カルタゴの町の描写」においても、420にaspectatという表現が認められます。

エクフラシスとの関連で言えば、「カルタゴの町の描写」では、主人公が高い丘に登り、町全体を鳥瞰できる位置にいる点が重要です(420 aspectat desuperといわれます)。主人公は丘の上に登ることによって、町の全体を視野におさめつつ、一方では「城門、道のにぎわい、舗装された道路の一つ一つに目を見張る (miratur)」(421-2)ことが可能となります。

すなわち、pars(423,425)、alii(427,428)hic(427に二度 )の用例とあいまって、ここに、「部分と全体の対比」、「細部を順序立てて描写する」といったエクフラシスを特徴づける表現が見られます(この表現技法について、<資料4>、<資料5>参照。)。

また、今引用した表現において、miraturという言葉は、原文において二度繰り返されていますが(421 miratur, 422 miratur)、この点で、同じく『アエネイス』のエクフラシスに頻出する「驚き」のモチーフとの関連が認められます。(<資料4>、<資料5>参照)

次に<資料1>の内容に関してですが、はじめに問題提起した426行以外に、問題とされる箇所があります。それは421行目の"miratur molem Aeneas, magalia quondam"という表現です。

molemは今目の前に見える大きな建物という意味ですが、magalia quondamとの対比について、セルウィウスは、「アエネーアースでなくウェルギリウスのコメントである」と解釈しています。コニントンもこの見解を支持した上で、8.359以下の表現との関連を指摘しています。(<資料6>)

すなわち、360 pauperis Euandriとmagalia quondamが対応し、molemと361 Romanoque Foro、lautis...Carinisとが対応することになります。

これに対しオースチンは、コニントンの比較した8.359以下は、厳密にはパラレルにはならないと述べます。エウアンデルとアエネーアースは、将来ローマになる場所を歩いているのだから、ローマの詩人がForumやCarinaeといった、自分の生きる時代に特有な言葉を用いてコメントをさしはさむことは自然であるが、カルタゴの過去と現在の対比についてコメントすることは、「不自然なまでに唐突なことである」と述べています。

そして、magalia quondamはウェルギリウスでなく、アエネーアースの内面の言葉であると解釈します。アエネーアースは目の前の大きな建物を見ながら、「かつてはきっとmagaliaであったに違いない」と心の中でつぶやいたというわけです。

このオースチンの説をどう見るかは別として、「カルタゴの町の描写」は、コニントンの指摘通り、<資料6>にあげた第8巻の359以下と対応していると思われます。つまり、359以下は、先に指摘した184以下(ヘルクレス・カクス・エピソード)とともに、詩人から見たローマの過去と現在が表されるのに対し、「カルタゴの町の描写」では、登場人物から見たカルタゴの過去と現在が対比されていることになります。

このように、あるときは詩人の目から見た過去と現在の対比が強調され、またあるときは、登場人物の目から見た過去と現在の対比が強調されるという展開は、この詩のエクフラシスに共通して見られる特徴のひとつです。(<資料7>)

さて、このような時制の対比、視点の対比は、エクフラシスの技法に関してだけでなく、第一巻の構成の分析を行う際にも重要な意味をもつと考えられます。以下この点を念頭に置きながら、<資料2>の検討を行います。

まずはじめに、「カルタゴの町の描写」と「支配者ディドの姿」の対応をみたいと思います。<資料8>にあげた表現で、詩人は女王ディドに関して、「彼女は法(iura)と布告を人民に与え、労働を等しく割り当てるか、籤によってそれを定めていた」(508)と語っています。

この言葉は、四二六行の「彼らは法(iura)を定め、行政官を選出し、神聖な元老院を置いていた」という表現と対応関係を示すと考えられます。

また、「カルタゴの町の描写」に続く箇所では、「勤勉なカルタゴ人」がミツバチに例えられています(<資料9>参照)。他方、「ユノの神殿の絵」に続く箇所では、美しいディドの姿が、ディアナに例えられています(<資料10>参照。どちらもqualisで始まる比喩表現となっています)。

つまり、「カルタゴの町の描写」は「支配者ディドの姿の描写」とともに、「ユノの神殿の絵」を取り囲みながら、一つの枠組みを作っていることが観察されます。

次に、第一巻の初めと終わりに目を向けますと、第一巻の初めでは、トロイア人に敵意を持つユノが、アエネーアースを苦しめようとしてアエオルスに嵐を引き起こさせます。一方、第一巻の終わりでは、ウェヌスがクピドに働きかけ、ディドにアエネーアースを愛すよう促します(dolusの対応。<資料11>)。

また、この枠組みにおいて、詩人はさりげなく「法」のモチーフを織り込んでいる点が注目されます。第一巻のはじめでは、自然の秩序を守る神の立場が、理想的指導者の姿にたとえられます(<資料12>)。

たとえば大群衆の中でしばしば喧嘩が起こり、名もなき大衆の心が荒れ狂い、燃え木や石が飛び交う(まこと狂乱は武器に仕えるもの!)とき、ひとたび 敬虔の念篤く、武勲をあげた威厳ある人物 を目にすると、彼らは沈黙し、耳を直立させて立ちつくす。その男は言葉によって人民の心を支配し、胸のいらだちを静めるからだ。このように、父なる神(ネプトゥヌス)が海の上を見渡し、馬を御しつつ晴れ渡った空の中を進み、従順な馬車に鞭をくれると、海のすべてのどよめきは、静まりかえった。

ここで描かれる理想的な指導者は、大衆のfurorを抑え、pietasを備える点で、先に<資料8>で紹介した公正な指導者ディドの姿を想起させます。

一方、第一巻の終わりの部分では、人間界の秩序を守る「法」は自然界と同様ユピテルが定めているという考えが、<資料13>にあげたディドの言葉に認められます。

ユピテルよ、客人を招く者の従うべき道を示した(731 dare iura)のはあなたであると人は言う。であればこそ、今日この日がテュルスの民とトロイアを旅立った者にとり、喜びに満ちた日になること、我々の子孫がこの日を記憶にとどめることをお認めください。

つまり、第一巻のはじめと終わりは、ともに女神のdolusを表すだけでなく、「法」のモチーフを共有する点でも対応関係を示します。また731行のdare iuraという表現は、先に見た507 iura dabatと対応していることが明らかです。(cf.minores)

次に、bとb'の対応を見ます。bにおいて、トロイア人は、アエオルスの引き起こした嵐に翻弄されます。その後、ネプトゥヌスによって嵐が鎮められた後、カルタゴの浜辺に漂着したアエネーアース一行は、火をおこし、穀物を調理する準備をはじめます。一方、アエネーアースは仲間のために狩猟を行い、獲物を仲間に分け与えます。

浜辺で火を起こし、狩りで得た動物の肉を切り分ける彼らの姿は、かつて祖国を逃れこの地にたどりついたディド一行の過去の経験をしのばせます。

実際、第一巻後半において、ディドがアエネーアース一行に救いの手を差し伸べるのは、彼女の率いるカルタゴ人が、かつてトロイア人と同様の苦しみを経験したことと関連しています。このことは、ディド自らが次のように述べていることからもうかがえます(<資料>14)。

運命はこの私にも多くの似たような苦難を与えて翻弄したが、ついにこの地に居を構えることをよしとした。 私は不幸を知らぬわけではない。それゆえ苦しむ者を助けるすべは心得ている。

トロイア人の心をなぐさめる女王の言葉は、カルタゴの浜辺で部下を励ますアエネーアースの言葉、すなわち<資料15>にあげた表現を想起させます。

おお、仲間の者たちよ(我々はこれまで不幸を知らぬわけではない )、おお、もっと大きな苦しみに耐えた者たちよ、神はこれらの苦しみにも終わりを与えよう。なんじら、スキュッラの激怒と深く音をあげる岩に近づいた者たちよ、また汝ら、キュクロペスの岩を経験した者たちよ。勇気を奮い起こし、悲しみと恐怖を追い払うがよい。おそらく、これらの苦しみを思い出して喜べる日が訪れるだろう。さまざまな苦難を乗り超え、運命の与えるこれほどの危機を克服しながら 我々はラティウムを目指すのだ。そこに安住の地があると運命が示すからであり、その地で トロイアの王国がよみがえることこそ運命にかなうことである。耐えるのだ、そして自らを幸福な日々のために守るのがよい。

すなわち、ディドの「私は不幸を知らぬわけではない」という言葉は、アエネーアースの「我々はこれまで不幸を知らぬわけではない」という言葉と対応していると言えます。

一方、今見たアエネーアースの言葉に関して注目されるのは、彼がトロイアの「過去」の苦難とともに、「未来」に期待されるその再興に言及している点です。「ラティウムを目指す」(205)という表現は、アエネーアースがトロイアの父祖の神々をラティウムに運び、新しい都市を築くことを含意しますが、このことは、同時にローマ建国の基礎をなす行為とみなされます(5-7)。

すなわち、アエネーアースがここで口にする「トロイアの再興」とは、未来のローマの繁栄という形で成就することが読者には了解されます。このように、bでは、絶望に追いやられたトロイア人の不安と希望が描かれる中、彼らの過去の経験と未来の出来事への言及が認められます。

これに対しb ’では、トロイア一行を暖かくもてなすカルタゴ人の姿が示されながら、彼らの達成した高度の生活様式が<資料16>にあげたように描かれています。

館の内部は、王家にふさわしい壮麗な輝き に満ち、部屋の中央では晩餐の準備が進められていた。食卓の上には 高貴な紫の色を巧みに織り込んだ覆いがかけられていた。その上に大きな銀の皿が置かれ、 黄金の壺には祖先の武勲の一部始終、すなわち最古の祖先から数多くの英雄の手を経て今に至る壮大な歴史絵巻が彫り刻まれていた。

このうち「壮麗な輝き」、「晩餐の準備」、「高貴な紫の色」、「黄金の壷」といった表現は、カルタゴの今の繁栄を象徴するものといえます。ここに描かれる豪華な晩餐の準備のようすは、bにおいて、トロイア人が火を起こし食事の準備をするシーンと好対照をなします。

この対比は、表向きには、カルタゴ人と、トロイア人の今の境遇の対比を意味するのですが、一方において、カルタゴの過去と現在の対比を示唆します。例えばこの対比との関連で、先に見た「カルタゴの町の描写」において、「かつてはほんの小さな小屋の集まりに過ぎなかった」と述べられていたことが思い出されます。

また、<資料16>に見られる「銀の皿の描写」には、エクフラシス的要素が見られますが、この点でローマの過去から未来にかけての発展を盾に描きこんだ第8巻のエピローグ、すなわち「盾の描写」とのつながりが考えられます。

次にdとd'の対応を検討します。

dには「ウェヌスとユピテルの対話」および「アエネーアースとウェヌスの対話」という二つの対話が用意され、d ’においては「イリオネウスとディドの対話」と「アエネーアースとディドの対話」が用意されています。すなわち、両者は形式上の対応関係を示すことが明らかです。では内容の面ではどうでしょうか。

まずdについてですが、「ウェヌスとユピテルの対話」において、ユピテルは未来のローマの繁栄をウェヌスに約束してこう述べます(<資料17>)。

キュテーラ(ウェヌスを崇める島)の女神よ、不安は取り除くがよい。 おまえの子孫の運命は、不動のまま横たわっている 。おまえはやがてラウィーニウムの都市と約束された城壁を見るだろう。また、たぐいまれな勇気をもつアエネーアースを、おまえは天の星まで高々と導くであろう。いかなる考えも私を動かすことはできない。

ユピテルはさらに、アエネーアースの死と息子アスカニウスによるアルバ・ロンガの建設について、またロムルスによる支配とローマ人の誕生について予言し、未来のローマ人には「際限のない支配権」(imperium sine fine)を与えたと述べます。

また、ユノもやがて考えを変え、自分とともにローマ人を慈しむようになるといいます。「際限のない支配権」とは、ローマの支配が永続すること、その支配は空間的に際限なく広がること、の二つを意味しています。

一方、「考えを変えてローマ人を慈しむユノ」という表現は、ローマによるカルタゴ征服という歴史事実を暗示しています。また、次にあげるカエサルの神格化や内乱についての表現は、ユピテルの約束する「際限のない支配権」が、アウグストゥスの時代において達成されるという印象を読者に与えています。<資料18>参照。

やがて高貴な家の血を引くトロイア人カエサルが誕生する。偉大なユルスに由来する家系、すなわちユリウス家の人間として、彼は 支配権 をオケアヌスによって区切り、その 名声は天まで達するだろう。彼は東方の戦利品をあふれんばかりに手にし、おまえは安らかな心で彼を天に迎えるだろう。彼もまた人々の祈りによってその名を口にされることになろう。そのとき戦いは終わりを告げ、残酷だった時代も穏やかになる。白髪のフィデスとウェスタ、兄弟レムスとともにロムルスは 法を与えるだろう。厳格な戦いの門は鉄のかんぬきによってぴったりと閉ざされる。 不敬なフロルはその中で残酷な武器の上に座り、百の青銅の結び目によって背中の後ろで両手を縛られながら、血に濡れた口からおぞましい叫び声をあげるだろう。

ユピテルの予言する未来のローマにおいて、その支配権(287 imperium)は世界中に及ぶといわれます。しかし、それは「不敬なフロル」(294 Furor impius)の跳梁する支配体制ではなく、「法」(293 iura)の尊重される世の中の到来を意味します。その限り、ユピテルの意志(258 fata)は地上の世界で実現するとともに、その成就に尽力した者は等しく誉れ(287 fama)を得るでしょう。

このように、ユピテルの言葉は、アエネーアースからアウグストゥスに至るローマの歴史を語っている点で、はじめに見た第六巻の「英雄のカタログ」や第八巻の「盾の描写」と密接に関連しますが、同時にアウグストゥス以降の世界秩序も視野に入れた表現となっています。

言い換えるなら、詩人はユピテルの言葉を通じて、アエネーアースから見た未来のローマの歴史を語りながら、人間世界の秩序を守る普遍的原理としての「法」(iura)を語っていることがうかがえます。

このような「法」のモチーフは、つづく「ウェヌスとアエネーアースの対話」(305-417)にも認められます。この対話では、ウェヌスがアエネーアースに対し、カルタゴ建国にまつわるディドの体験を語っています。(<資料19>)

ウェヌスはまず「(ディドの受けた) 不正(341 iniuria)は語れば長くなるし、その紆余曲折も長い話です。そこで私は出来事の要点をかいつまんでお話ししましょう」(341-2)といいます。ウェヌスの口にする「不正」とは、直前でユピテルの用いた「法」(293 iura)という言葉と鋭いコントラストをなします。

一方ディドの築いた新しい国において「法」(426 iura)が遵守されている様子については、はじめに見たとおりです。

さて、dにおいて確認してきた「法」のモチーフは、d’においても重要な意味を持ちます。まずディドに対してイリオネウスが「おお女王よ、新しい都を築き、正義によって(523 iustitiaque)、ほこり高い人民を統治するようユピテルが許した者よ」(522-3)と呼びかけた上、「敬虔なわが民族(526 pio generi)を許し、われわれの不運に好意ある目を向けてほしい。(526)」と慈悲を求めます。

一方、浜辺に流れ着いたトロイア人に戦いを仕掛け、上陸をはばんだカルタゴ人のやり方については、「このような習慣を許すとはどれほど野蛮な国なのか」と糾弾し、「正義と不正を心得た神々をさげすむがよい」(543 at sperate deos memores fandi atque nefandi)と非難します。

一方自分たちの王はアエネーアースであると述べ、「敬神(545 pietate)を重んじる点でこの王以上に心正しい者はなく(544 iustior)、戦においても武器をとっても、この王以上に偉大な男はいない」と付け加えます。(このうちpietateとiustiorという言葉が注目されます。)

イリオネウスに続き、今度はアエネーアースがディドと対話を行うシーンが用意されます。アエネーアースはトロイア人を救済してくれたディドに感謝を捧げます。<資料20>参照。

もし神々が敬虔な者を重んじるなら、また、どこであれ正義を尊ぶ心があるのなら、また誰であれ自ら「正しい行い」を知る心が認められるなら、神々があなたにふさわしい恵みを授けますように。なんと喜ばしい時代があなたをもたらしたのだろう。どんなにすばらしい両親が、これほど立派な人間をもたらしたのか。川が海に流れ、雲の影が山の谷間を駆け抜け、空が星を養うあいだ、常に誉れとあなたの名と賞賛がとどまるだろう。今後どのような土地が私を招くにせよ。

ここでも、「法のモチーフ」との関連で、603 pios, 604 iustitia, 604 conscia rectiといった表現が注目されます。

以上の分析をふまえ、次に第一巻の中央に位置するエクフラシス、すなわち「ユノの神殿の描写」を見ます。(<資料5>)

アエネアスはユノをまつる神殿の中で初めて恐れを取り除き、救済の希望を持つことができたといわれます(450-2)。

神殿の絵は、トロイア人の過去の武勇が今や「誉れ」としてカルタゴ人に語りつがれていることを明らかにし、この点で彼は部下を励まし、未来に対する希望を抱くことができました。すなわち、アエネアスは目の前の「絵」を通し、トロイア人の美徳をたたえるカルタゴ人の言葉を聞いたといえます。

他方、ディドとはじめて出あったアエネアスは、pietas、iustitiaといった言葉によって彼女の美徳にふれ、自然の摂理が不変であるように、「常に誉れとあなたの名と賞賛がとどまるだろう」と述べていました。

これらの箇所で繰り返し出てくる「誉れ」という言葉は、人間の行いの正しさ、立派さと関連する言葉であり、正義、すなわち法のモチーフと密接に結びつくものです。「ユノの神殿の描写」では、iuraという概念が、空間を越えて共有しうる美徳であることが示唆されているように思われます。

さて、以上見てきた枠組みの中で、はじめに問題として取り上げた第四二六行目の表現を改めて見直してみます。

第一に、この表現を含む「カルタゴの町の描写」は、第一巻の緊密な対応関係を形作る重要な要素の一つであること、第二に、四二六行に認められる「法」のモチーフは、第一巻全体を貫く主要なモチーフの一つであることが確認されました。

四二六行の「法」(iura)とは、単なる規則や罰則の羅列を意味するのではありません。第一巻を通じて認められる「法」のモチーフをふりかえるとき、詩人がこの言葉に込めた意味とは、時空を越えて認められる国づくりの原理にほかならなかったと解釈できるように思われます。

すでに見たように、アウグストゥスの治めるローマ社会とは、ユピテルによって「際限のない支配権」を約束された理想的な国家---国家としてのあるべき姿---として、詩人には把握されています。imperium sine fineとは、空間的にも時間的にも永遠の支配権という意味です。

アエネーアースはカルタゴの丘の上から、正義の行われる理想国家カルタゴの町を目にしますが、その描写にローマの政治体制を想起させる工夫が盛り込まれているとすれば、主人公はこの描写を通じて未来の理想国家ローマを目の当たりにしているのだ、という解釈も生まれます。

この解釈は、『アエネイス』のエクフラシスの特徴に照らして考えるとき、決して不自然なものとはいえません。「英雄のカタログ」にせよ、「盾の描写」にせよ、これらのエクフラシス表現において、アエネアスは未来のローマの出来事の一つ一つを目にする、という設定になっているからです。

この設定にどのような意義があるのかについて、今後より広い見地から検討を加える必要があると思われますが、少なくとも、国家の相違、時代の相違を越えて認めることの出来る人生の普遍的原理、すなわち「法」iuraを描こうとする詩人のヴィジョンを反映していることは間違いないと思われます。

本発表の冒頭で問題提起した、一見唐突で場違いな表現とされる第一巻426行についても、以上見てきた解釈の可能性を示唆する重要な表現であると私には思われます。