『アエネイス』第8巻「ヘルクレス-カクス・エピソード」に関する一考察

『アエネイス』第8巻「ヘルクレス-カクス・エピソード」に関する一考察

山下太郎

『アエネイス』第8巻の「ヘルクレス-カクス・エピソード」(184 305)については,従来アレゴリー説を中心とした解釈が行われている.すなわち,ヘルクレス対カクスは,アエネアス対トゥルヌス,ひいてはアウグストゥスとアントニウスの対決を先取りしている,としばしば解される.他方,グランセンはこの解釈を紹介しながらも,同時にエクプラシスの技法が用いられている事実に注意を促している

. このエピソードの導入部は次のように始まっている(8.184ff.).

Postquam exempta fames et amor compressus edendi,

rex Euandrus ait: ‘non haec sollemnia nobis,

has ex more dapes, hanc tanti numinis aram

uana superstitio ueterumque ignara deorum

imposuit: saeuis, hospes Troiane, periclis

seruati facimus meritosque nouamus honores.

iam primum saxis suspensam hanc aspice rupem,

disiectae procul ut moles desertaque montis

stat domus et scopuli ingentem traxere ruinam.

空腹がおさまり,食欲が満たされると,王エウアンデルはこう語る.「我々の厳かな祭りも,習わしになった宴も,これほど偉大な神をまつる祭壇も,いにしえの神々を知らぬ空しい迷信から始めたものではない.おお,トロイアの客人たちよ,過酷な苦難から救われて,我々はこのような儀式を執り行い,神の恩恵にふさわしい崇拝を捧げているのだ.まず初めに,この岩だらけの迫り出した崖を見て欲しい.どれほどの岩の固まりが分散しているか,山上の家がなんとさびしげにたっているのか.岩石がいかに巨大な廃虚を導いたのか.

ここでは,指示代名詞hicの反復が臨場感を醸し出すこと(185 haec, 186 has, 186 hanc, 190 hanc),また「見よ」(190 aspice)という表現が,第6巻末の「英雄のカタログ」との関連を示唆していること(cf. 6.771 aspice, 6.788 aspice, 6.825 aspice, 6.855 aspice)などが注目される.

『アエネイス』におけるエクプラシスの例としては,今言及した第6巻の「英雄のカタログ」(6.679ff.)に加え,第1巻の「ユノの神殿の絵」(1.453-493) ,第6巻の「ダエダルスの扉絵」(6.20ff.),第8巻の「楯の描写」(8.626-728) などが挙げられる.私は先行する論考において,ウェルギリウスの詩的技法との関連から,これらのエクプラシス相互のつながりに着目した.即ち,「ユノの神殿の絵」と「英雄のカタログ」の関連を検討しつつ,第6巻冒頭の「ダエダルスの扉絵」の解釈を行った.とりわけ詩の中で描かれる出来事に関して,体験者(目撃者)としてそれを「知る者」と,噂を聞くだけで「何も知らない者」の対比が明瞭に区別されていること,エピソードの全体を視野に入れつつ部分を語るといった手法が用いられていること,などに注目した.

またこのとき,次にあげる『イリアス』の詩人のムーサへの祈りと,『アエネイス』第6巻264以下の対応関係が重要な鍵を握ることが明らかになった.

今こそ私に語り給え,オリュンポスに住まうムーサたちよ――汝らは女神であり,その場に居合わせ万事を知っているが,一方我々は,ただ噂 (kleos)を聞いているだけで何一つ知ってはいない――ダナオイ勢の将軍たちや指揮官たちがどのような人々であったかを.イリオス城下に結集したこれほど多くの軍勢については,たとえ私に舌が十枚,口が十あったとしても,また嗄れることのない声と青銅の胸があったとしても,もしオリュンポスに住まうムーサたち,アイギスをもつゼウスの娘たち,汝らが教えてくれなければ,私には語ることも名を挙げることもできないだろう.では軍船の将軍たちと船隊の名を,これからあまねく述べることにしよう.

この表現を想起させるかのように,『アエネイス』第6巻264-7において,詩人は次のような祈りの言葉を冥界の神々に捧げている.

Di, quibus imperium est animarum, umbraeque silentes

et Chaos et Phlegethon, loca nocte tacentia late,

sit mihi fas audita loqui, sit numine uestro

pandere res alta terra et caligine mersas.

冥界を支配する神々よ,沈黙の影たちよ,おお混沌よ,プレゲトンよ,静寂の限りなくひろがる夜の世界よ,聞いたことを語ることが私に許されるように.汝らの神意によって,地中深く暗黒に覆われた出来事を明らかにすることが許されるように.

両者の対応関係については,オースティンを初め多くの学者が指摘するところである. 前回はこの関連に注目しながら,次のような結論を導き出した.

ウェルギリウスは,『イリアス』の詩人のムーサへの祈り(Il.2.484ff.)を念頭に置きながら(cf.6.264-7),次の各要素について物語ろうと試みる.

(a)「主人公の過去」:第1巻「ユノの神殿の絵」

(a)’「主人公の未来」:第1巻「ユピテルとウェヌスの対話」,第6巻「英雄のカタログ」

(b)「読者の過去・現在」:第6巻「英雄のカタログ」

(b)’「読者の未来」:第1巻「ユピテルとウェヌスの対話」

(c)「神話上の人物の過去」:第6巻「ダエダルスの扉絵」

(c)’「神話上の人物の過去・現在・未来」:第6巻「タルタルス・エピソード」

ウェルギリウス独自の視点とは,読者の生きる時代の出来事を詩の中で「未来の出来事」として予言した点にある.たとえば,第6巻末の「英雄のカタログ」で描かれる主人公の未来とは,読者にとり確定された過去(および現在)の出来事に他ならない(すなわち(a)’=(b)).また,第1巻のユピテルの予言は,アエネアスの未来を語るものであると同時に,現実の(さらには未来の)ローマに生きる人間に与えられた予言でもある.このとき,(a)’=(b)’となる.一方,ダエダルス・エピソードとタルタルス・エピソードでは,詩人はこれらの神話上の出来事を,アエネアスが目の前の図柄を通じて,あるいは巫女の言葉を通して間接的に知るという設定を行っている.すなわち,アエネアスの経験(a)と神話上の出来事(c)は互いに歴史的前後関係を持つものとして結びつく.このことは,詩中に語られるアエネアスの体験を,詩人の言葉を通じて間接的に知る読者の立場と呼応する.そしてこの詩人の言葉の真実性についてはムーサが保証するだろう.読者は『イリアス』の詩人のムーサへの祈りを想起するよう促されていたのである(6.264-7).このように,第1巻と第6巻のエクプラシスを中心に見たとき,読者も含めたすべての人間について,その過去,現在,未来の出来事をあまねく物語ろうと試みた詩人の意図が窺えるであろう.

本稿ではこの成果を批判的に継承しつつ,考察の対象を第8巻に広げてみたい.すなわち第8巻エピローグの「楯の描写」を視野に入れ,同時に「ヘルクレス-カクス・エピソード」をエクプラシスの一形態ととらえることによって,このエピソードに関する新たな解釈の可能性を指摘したいと思う.

第8巻の初め(8.36-65)において,河神ティベリヌスは,アエネアスの勝利 (cf. 50 uictor, 61 uictor)とアスカニウスによるアルバの建設(48)を予言している.ティベリヌスは,アエネアスについて「永遠のペルガマを守る者」(cf.37 aeternaque Pergama seruas)と呼びかけるが,この表現は未来のローマの繁栄を暗示し,「楯の描写」(8.626-728)との対応関係を示唆している.

この巻末の記述において,詩人はアエネアスの受け取った楯について,次のように語り始める(8.617-19).

ille deae donis et tanto laetus honore

expleri nequit atque oculos per singula uoluit,

miraturque.

アエネアスは,女神から受け取ったかくも誉れある贈り物に喜び,飽きることなく細部まで眺めつくし,驚嘆した.

一方楯に描かれた主題についてはこう述べる(626-29).

illic res Italas Romanorumque triumphos

haud uatum ignarus uenturique inscius aeui

fecerat ignipotens, illic genus omne futurae

stirpis ab Ascanio pugnataque in ordine bella.

そこには予言の術を知り,来るべき未来を知る火の神が,イタリアの歴史とローマ人の勝利を刻んでいた.そこには,アスカニウスから後の時代に続くすべての一族の面々と,彼らが戦った戦闘の有り様が順を追って描かれていた.

即ち,この楯にはアクティウムの海戦におけるアウグストゥスの勝利と凱旋に至るまでのローマの歴史(8.626 res)が彫られていたのである.これに対して,エピローグ全体を締めくくる箇所では,次のように言われる(8.729-31).

Talia per clipeum Volcani, dona parentis,

miratur rerumque ignarus imagine gaudet

attollens umero famamque et fata nepotum.

アエネアスは,母の贈り物であるウルカヌスの楯に描かれたこれらの出来事を見ては驚嘆し,これらの出来事を何一つ知らぬ身ながら,刻まれた模様を眺め喜び,両肩に子孫の運命と誉れを担った.

8.730 rerumqueは8.626 resと対応しながら,今触れたローマの歴史を意味すると考えられる.アエネアスがこれらの出来事を何一つ知らないと表現される時,「楯の描写」の始まりと終わりの部分では,未来の出来事を知る神(cf. 627 haud uatum ignarus uenturique inscius aeui)と,それを知らないアエネアス(cf. 730 rerumque ignarus)のコントラストが明瞭に示されることになる.

一方「楯の描写」には,このコントラスト以外にも,いくつかの表現の対応関係が認められる.例えば617 laetusは730 gaudetと呼応し,617 honoreは731 famamqueと響き合う.また619 miraturqueは730 miraturと明らかに対応する.即ち「楯の描写」の初めと終わりの部分は,「喜び」や「誉れ」,「驚き」といったモチーフを共有している点で緊密な対応を示すことが窺える.このような言葉の対応・対比関係を踏まえた上で,他のエクプラシスと第8巻エピローグとの関連を見ておくことにする.

初めに第8巻末と第1巻の「ユノの神殿の絵」(1.453-493)との対応を検討する.このエクプラシスは,次のように始まっている.

namque sub ingenti (1)lustrat dum singula templo

reginam opperiens, dum quae fortuna sit urbi

artificumque manus inter se operumque laborem

(2)miratur, (3)uidet Iliacas ex ordine pugnas

bellaque iam (4)fama totum uulgata per orbem,

Atridas Priamumque et saeuum ambobus Achillem.

constitit et lacrimans ‘quis iam locus,’ inquit, ‘Achate,

quae regio in terris nostri non plena laboris?

en Priamus. sunt hic etiam sua praemia (4)laudi,

sunt lacrimae rerum et mentem mortalia tangunt.

solue metus; feret haec aliquam tibi (4)fama salutem.

このうち(1) 1.453 lustrat dum singula,(2) 1.456 miratur(cf.421, 22 miratur), (3) 1.456 videt Iliacas ex ordine pugnas,(4) 1.457 fama totum uulgata per orbem,1.460 laudi,1.462 famaの各表現は,「楯の描写」における(1)’ 8.618 oculos per singula volvit,(2)’ 8.619 miraturおよび8.730 miratur,(3)’ 8.629 pugnataque in ordine bella,(4)’ 8.617 honore, 8.731 famamqueと対応している.つまり両者には,(1) 細部を見る,(2) 対象を見て驚く(cf.494 miranda, 495 stupet),(3) 対象は順序だてて表現されている,(4) 対象は「名声」ないし「誉れ」を象徴している,といったモチーフの共通性が見出せる.また,1.459 lacrimansで示される主人公の「涙」は,第8巻エピローグで注意した「喜び」のモチーフ(8.617 laetus,8.730 gaudet)と対比的である.では,内容の点で2つのエクプラシスはどのように関連しているのだろうか.

第1巻において,カルタゴに漂着したアエネアスは,ユノをまつる神殿に目を見張るが,その「細部を眺め」(1.453 lustrat…singula),絵の中に「順々に」(1.456 ex ordine)描かれた出来事を見るにつけ,はからずも涙にむせぶ.そこで見たものは,ほかならぬ「自己の体験」,即ち「トロイア戦争」の絵であった.「ユノの神殿の絵」には,主人公の過去の体験そのものが描かれていた.彼の涙は,このことを強く示唆する.だが,絵を見る主人公の心を支配するのは過去の思い出ばかりではない.神殿の絵は,アエネアスの過去の行いが,今や誉れ(457fama)として人々に語り継がれていることを明らかにするが,この点で主人公は部下を励まし(463 solue metus),未来に対する希望を抱くことができたのである(cf.463 feret haec aliquam tibi fama salutem).

他方,第8巻エピローグにおいても,詩人と同時代を生きるローマの読者は,ウルカヌスの楯に関する描写にふれて,悲痛な内乱の経験(711 maerentemに注目されたい) がまざまざと蘇ったであろう.このエピローグで語られる「ローマの未来」とは,読者から見た過去の出来事,ないしは現実に起こった出来事に他ならない.しかし,この箇所では基本的にアウグストゥスの業績や民衆の歓喜(cf. 717 laetitita ludisque uiae plausuque fremebant)が強調されることにより,現在および未来の平和への希望が表現されている.即ち,第1巻では主人公の「涙」の中に救済の「希望」が示唆されているのに対し,第8巻では内乱の恐怖から救われたローマ人の「希望」の中に過去の「悲しみ」が暗示されている.

このように,第1巻の「ユノの神殿の扉絵」と第8巻末の「楯の描写」は,双方言葉の関連においても,内容の点においても緊密な対応・対比関係を示すことが窺える.では,この関連性は詩人の詩作技法,創作意図とどのように絡み合うのか.

この問題との関連で,第6巻エピローグと第8巻エピローグの対応関係を確認しておきたい.前者では,アンキセスがローマの未来を予言している点で,後者と共通するテーマをもつが,次にあげる言葉の対応は,これら2つのエピローグの関連をより強く裏付けるだろう.即ち,

(1) 6.683 fataque fortunasque omnemque suorum,6.756-7 Dardaniam prolem quae deinde sequantur/gloria,6.889 famaeと8.731 famamque et fata nepotum,

(2) 6.723 ordineおよび6.755 ordineと8.629 ordine,

(3) 6.723 singulaおよび6.888 per singula と8.618 per singula,

(4) 6.854 mirantibusと8.619 miraturおよび8.730 miratur,

の対応は明瞭である.ここでさらに注意されることは,上記(1)~(4)の各要素は第1巻「ユノの神殿の絵」においても認められる点である.(1) はアエネアスから見た子孫(ローマ人)の誉れ,運命を表す語であるが,この点で先に見た1.457 fama, 460 laudi, 462 famaと対応するし,(2) に関しては1.456 ordine,(3) は1.453 singula,(4) については,1.456 miraturとそれぞれ呼応している.

一方,未来のローマの出来事を「知る立場」と「知らない立場」の対比はここにおいても認められる.アエネアスは,アンキセスの示す未来の出来事について「知らない」(6.711 inscius)と表現されるのに対し,読者はアンキセスとともに,それを「知る立場」を代表する.例えば夭折したマルケッルスのエピソード (6.860ff.)は,アンキセスと同様 (cf. 6.867 lacrimis) 多くの読者の涙を誘ったに違いない.だがアエネアスにとってはあくまでも未知なるエピソードの一つに過ぎず,ユノの神殿におけるようには涙を流さない.トロイア戦争に関して,アエネアスはいわば歴史の目撃証人であったのに対し,未来のローマについてはいかなる知識も持ち合わせないことが明らかである.このように,第8巻エピローグは第1巻の「ユノの神殿の絵」,第6巻の「英雄のカタログ」と数多くの対応・対比関係を有することが窺える.とりわけ詩の中で描かれる出来事に関して,体験者としてそれを「知る者」と,それを「知らない者」のコントラストが明瞭に区別されている点が注目される.

すでに触れたように,この対比の意義は,『イリアス』の詩人のムーサへの祈りに見られるコントラスト,即ち「その場に居合わせ万事を知っている者」と「ただ噂を聞いているだけで何一つ知ってはいない者」の対比,および『アエネイス』第6巻に見られる冥界の神々への祈りの言葉(264-7)と関連づけられる.この関連をふまえた上で,後者の祈りの言葉(6.264-7)と第8巻エピローグの対応関係に着目したい.即ち,6.266 auditaを意味上famaと解するとき(auditaは『イリアス』のkleosと対応しながら,famaと解することができる),8.731 famamqueとの対応が考えられる.また6.267 alta terra et caligine mersasは,「未来の出来事について何一つ知らないアエネアス (cf. 8.730 rerumque ignarus)」という第8巻エピローグの表現を想起させる.このとき6.267 resは,先に見た8.626 res,730 rerumqueと対応しながら,「ローマの歴史」を意味すると考えられる.

一方すでに見たように,第8巻のエピローグを締めくくる箇所では,「アエネアスは,母の贈り物であるウルカヌスの楯に描かれたこれらの出来事を見ては驚嘆し,これらの出来事を何一つ知らぬ身ながら,刻まれた模様を眺め喜び,両肩に子孫の運命と誉れを担った.」といわれている.この表現において明らかなごとく,詩人はローマの未来の栄光をアエネアスの肩に担わせることにより,神話上の英雄の経験を読者の経験する歴史的世界と相関関係のもとに置こうとしている.この手法は,すでに見たように,第8巻のエピローグと対応するその他のエクプラシスにおいても顕著に認められる.では第8巻の「ヘルクレス-カクス・エピソード」(184-267)ではどうであろうか.またこの手法を取り入れた詩人の意図はどこにあったのか.

冒頭でも見たように,「ヘルクレス-カクス・エピソード」の導入部は,第6巻末の「英雄のカタログ」と密接に関連づけられる.第6巻では未来の英雄の長い列を前にして,アンキセスがその一人一人をアエネアスに見るよう呼びかけていた.一方,第8巻では,エウアンデルが目の前の地形を指さしながら,Ara Maximaの祭式の起源となったエピソードを紹介していく.その内容が,ヘルクレスとカクスの戦いの物語である.

ところで,このエピソードを含めた一連のエウアンデルとアエネアスのやりとり(184-369)は,構成上次のように分析できるように思われる.

(1) 神話(A):エウアンデルは,Ara Maximaの祭りのさなか,アエネアスにヘルクレス -カクス・エピソードを物語る(184-305).

(2) 神話(B)の導入部:帰路につく途上,アエネアスは「いにしえの英雄たちの記念碑」(312 uirum monimenta priorum)について,エウアンデルの説明を求める(306-312).

(3) 神話(B):エウアンデルは,サトゥルヌスの黄金時代のエピソードについて物語る(313-358).

(4) 神話(A):王宮に到着したエウアンデルは,再びヘルクレスの話題に言及する(359-369).

もしこの分析が可能であるとすれば,「ヘルクレス-カクス・エピソード」はサトゥルヌスの黄金時代の描写とセットにして議論すべきことがわかる.また,エウアンデルは,これらのエピソードを,かつて「目の前の土地で」実際に起きた出来事としてアエネアスに語っている点が注目される.言い換えるなら,主人公の経験と神話上の神々(サトゥルヌスとヘルクレス)の行為が,時間的前後関係を持つものとして語られている.また188-189 periclis/seruati facimusは,アルカディア人が「ヘルクレスに救済されたことを感謝して祭りを行っている」という意味をもつだけでなく,同じ祭りを継承する詩人の同時代人にもあてはまる表現になっている.このように登場人物から見た未来のローマ人を念頭に置く点で,すでに検討した他のエクプラシスとの関連が予想される.

実際この推測を裏付けるように,神話(B)の導入部(上にあげた2つのエピソードのつなぎ目の箇所)(306-312)では,先述した第1,6,8巻のエクプラシス(「ユノの神殿の絵」,「英雄のカタログ」,「楯の描写」)相互を結びつけるキーワードが集中している.

Exim se cuncti diuinis rebus ad urbem

perfectis referunt. ibat rex obsitus aeuo,

et comitem Aenean iuxta natumque tenebat

ingrediens uarioque uiam sermone leuabat.

(1)miratur (2)facilisque oculos fert omnia circum

Aeneas, (1)capiturque locis et (3)singula (4)laetus

exquiritque auditque uirum monimenta priorum.

続いて一同は神事を終えて町に足を向けた.高齢の王はそばに仲間のアエネアスと息子を引き連れて歩を進め,道中様々な話を交わしながら行く道を軽やかにした.アエネアスは案内されるものすべてに喜々として目を向けながら驚嘆し,あたりの土地に魅了された.喜びをもっていにしえの英雄たちの記念碑を眺めては,細部に至るまで問を出し,その説明に耳を傾けた.

即ちここには,

(1)「驚嘆」のモチーフ(310 miratur, cf.311 capiturque)

(2)「すべてを見る」モチーフ(310 facilisque oculos fert omnia circum)

(3)「対象の細部を見る」モチーフ(311 singula)

(4)「喜び」のモチーフ(311 laetus)

といったキーワードが認められる.各々他のエクプラシスとの対応箇所を示すと,

(1)’:1.456 miratur, 6.854 mirantibus, 8.619 miratur, 8.730 miratur

(2)’:6.754-5 omnis longo ordine…legere,

(3)’:1.453 lustrat dum singula, 6.888 per singula, 8.618 oculos per singula uoluit

(4)’:8.617 laetus, 8.730 gaudet

などをあげることができる.この対応関係を考慮に入れながら,以下において「ヘルクレス-カクス・エピソード」を含む184-369の構成の意義を検討していく.

まず神話(A)「ヘルクレス-カクス・エピソード」(184-305)から見ていくことにする.ここではエウアンデルは,Ara Maximaでヘルクレスを讃える祭りの執り行われる中,なぜこのような祭りを行うようになったのか,エウアンデルがその縁起をアエネアスに語っている.ここで注目されることは,構成上ヘルクレス-カクスの物語を中核とする外枠の部分(184-189,268-305)において,未来のローマへの言及が明瞭に認められる点である.

例えば,冒頭の188-189では「おお,トロイアの客人たちよ,過酷な苦難から救われて,我々はこのような儀式を執り行い,神の恩恵にふさわしい崇拝を捧げているのだ.」と語り,かつて殺戮(196 caede)をほしいままにしたカクスの残虐な振舞いを示唆している.この表現は表向きには登場人物から見た過去の出来事への言及であるが,一方189 nouamusは,この祭りが(登場人物にとっての)過去から現在に至るまで継続的に行われてきた事実を示す.

厳密に言えば,ヘルクレスがカクスを倒した行為は単にエウアンデル率いるアルカディア人のみならず,未来のローマ人にとっての「救済」(cf.189 seruati)という意味あいを有している.事実,登場人物の目の前で行われているAra Maximaの祭式は,読者の時代に受け継がれた祭りであり,さらに未来のローマ人もこれを継承するであろう.先に触れた「見よ」(190 aspice)という呼びかけは,指示代名詞hicの反復(185,186,190)とあいまって,あたかも詩人の同時代人への呼びかけであるかのような印象を与えている.

一方,この引用箇所と呼応するように,外枠の後半部を導入する箇所では,エウアンデルが次のように述べている(268-275).

ex illo celebratus honos laetique minores

seruauere diem, primusque Potitius auctor

et domus Herculei custos Pinaria sacri

hanc aram luco statuit, quae maxima semper

dicetur nobis et erit quae maxima semper.

quare agite o iuuenes, tantarum in munere laudum

cingite fronde comas et pocula porgite dextris,

communemque uocate deum et date uina uolentes.

そのとき以来,祭りが催され,若い世代も喜んでこの日を祝う.まずは祭儀の創始者ポティティウス,さらにはヘルクレスへの崇拝を守護するピナリウスの家系が,聖林の中にこの祭壇をもうけたのである.これは我々によって永遠に最大の祭壇と呼ばれるだろう.また常に最大の祭壇であり続けるだろう.従っておお若者たちよ,これほどの功績に対する務めとして額で髪を束ね,右手で杯を掲げ,神の名を呼び,進んで酒を与えるがよい.

このうち268 minores,273 iuuenesは,semperの反復(271-2)とともに,未来のローマ人(読者から見た未来を含む)を念頭においた表現といえる.またminoresを修飾するlaetiは,275 uolentes,279 laetiと響き合いながら,第8巻末でアウグストゥスに救済されたローマ国民の「喜び」(cf.717 laetitia)を想起させる.事実,上に引用した最後の3行は,そのまま未来のローマ国民に対するメッセージとなっている.ローマの読者は,自らの体験において,この予言(=ヘルクレスを讃える祭りが未来においても継続されること)の確からしさを確認できたであろう. 一方これに対応する形で,外枠の後半部を締めくくる部分(301-302)では,サリイ(285 Salii)が「栄えあれ,真にユピテルの血を引く者よ,神々に添えられた誉れある者よ」と呼びかけている.この表現自体グランセンも指摘するように,単にヘルクレスのみならず,アウグストゥスを賛美する表現と受け取ることが可能である.のみならず,今後ローマが栄える限りこの国を導くであろうすべての未来のローマ人への呼びかけとも解せるだろう.

このように,「ヘルクレス-カクス・エピソード」の初めと終わりの部分には未来のローマへの言及が色濃く認められるが,この点で先に見た他のエクプラシスとの連関を考えることができる.例えば第6巻のエピローグではアンキセスが,第8巻のエピローグではウルカヌスの楯が,それぞれローマの未来を予言していた.詩人はこれらの箇所において,アエネアスに「未来のローマの歴史を見せる」という設定を行っていたが,前者では将来のローマの英雄の姿をアンキセスが示し,後者ではアウグストゥスによる平和の樹立に至るまでのローマの歴史を楯の絵柄が見せていたのである.これに対し,エウアンデルはアエネアスにヘルクレスの祭りを見せることで,同時に読者の目の前で行われる出来事(=ローマ時代に継承されたヘルクレスの祭り)に言及することになる.つまり詩人は神殿の絵や楯の図柄ではなく,ここではローマに現存する土地を一枚の絵と見立て,個々の地名に言及しながら,その細部に秘められた神話的エピソードを紹介していくのである.

『イリアス』の詩人のムーサへの祈りとの関連で言えば,読者は本来エウアンデルとアエネアスのやりとりについて「ただ噂を聞いているだけで何一つ知ってはいない」立場に終始する.しかし今見たように,過去の神話的エピソードと現在の出来事を同一視する視点に立つとき,読者はあたかも「その場に居合わせて万事を知っている」ような錯覚に襲われるだろう.

他方,外枠(184-189および268-305)に包まれた中心部(190-267)において,エウアンデルはヘルクレスがカクスを倒す神話的エピソードを物語っている.このエピソードのもつ象徴的意義については,すでに数多くの論考が貴重な示唆を与えている.ここではむしろ,エウアンデルが過去の出来事としてこのエピソードを紹介している点に着目したい.即ちエウアンデルの語り口は,あたかも目撃証人のそれを思わせる.例えば222 tum primum nostri Cacum uidere timentem(「その時初めて我々はカクスが恐怖におののくのを見た」)という表現において,nostriはエウアンデルを含むアルカディア人とみなすことができる.ここに窺える「エウアンデル=目撃証人」という解釈の可能性は,再び『イリアス』の詩人のムーサへの祈りの言葉を連想させるだろう.上に訳出した「おお,トロイアの客人たちよ,過酷な苦難から救われて,我々はこのような儀式を執り行い,神の恩恵にふさわしい崇拝を捧げているのだ」という表現は,自分を含むアルカディア人がヘルクレスによって救済された経験(seruati)を示唆している.

だが厳密に考えれば,エウアンデルは必ずしもヘルクレスとカクスの戦いを目撃したとは断言できない.即ち222 nostriとは,エウアンデルの先祖にあたるアルカディア人を指すという可能性もある.その意味では,彼自身「ただ噂を聞くだけで何一つ知ってはいない」立場をとるのかも知れない.しかしエウアンデルは目の前の地形を指さしながら,この地形そのものを叙述の信憑性を高めるための証拠として援用する.言い換えるなら,彼は「その場に居合わせ万事を知っている」ムーサのごとく,ヘルクレスのアリステイアを語るのである.

一方,この土地は読者の時代にも存在したことが明らかであることから,エウアンデルはアエネアスにヘルクレスの武勇伝を語るかに見せて,実はローマの読者を念頭においてこのエピソードを紹介しているという含みもある.さらにカクスを倒すヘルクレスが,ひいてはアントニウスを討ちとったアウグストゥスを想起させることは言うまでもない.現存する地形にせよ祭りにせよ,さらにはアウグストゥスという英雄の存在も含めて,詩人はローマの読者が自らの経験で確かめられる事実に訴える形で叙述の臨場感を高めようとしている.

以上の考察をふまえるとき,神話(A):ヘルクレスエピソード(184-305) 全体の構成は次のようにまとめられる.

(1) 今の出来事(祭りの挙行)184-189

(2) 過去の出来事(「ヘルクレス-カクス・エピソード」)190-267

(3) 今の出来事(祭りの挙行)268-305

このうち(1)と(3)はローマの未来の出来事を想起させる表現をもつ点で対応するが,(2)についても,今検討した意味においてローマの未来を示唆していると解すことによって.外枠の(1),(3)と響き合っている.

ここで上で見てきた「ローマの未来を語る」モチーフについて別の角度から補足しておく.再び冒頭のティベリヌスの予言を見ておきたい.ティベリヌスはアエネアスに対しいくつかの予言を行った後,「夢がこれらの言葉を虚偽のものとして作ったと汝が考えないように,一言申し添えよう.汝は一頭の大きな豚が30頭の子豚を生んで樫の木の繁る海岸に横たわるのを見出すであろう.母豚は真っ白な姿で地面に寝そべり,その乳のまわりには真っ白な子豚がまとわりついている.」(42-45)と述べている.ティベリヌスは続けて,アスカニウスが将来アルバを建設すると予言し,自ら真実(49 haud incerta)を語っていることを強調する.さらには,アエネアスがいかにして勝利者となるのか,手短に述べるという.

Ascanius clari condet cognominis Albam.

haud incerta cano. nunc qua ratione quod instat

expedias uictor, paucis (aduerte) docebo. (48-50)

一方続く81-3では,夢からさめたアエネアスが,海岸に白い豚が白い子豚を抱いて横たわっているのを認める様子が描かれる.言い換えるなら,アエネアスは一つの予兆(cf.81 mirabile monstrum)を通じて,ティベリヌスの予言全体の確からしさに確信を抱くという展開がここには見られる.このパタンは,エウアンデルの口を借りてローマの未来を予言するウェルギリウスの姿勢を想起させるものである.事実ウェルギリウスは読者が自らの目で確かめられる出来事を予言することによって,叙述全体(読者の知らない神話上のエピソードも含めて)にある種の説得力と臨場感をもたせている.このように未来のローマを予言する詩人とティベリヌスを同一視する視点は,49 canoや50 doceboといった言葉が裏付けよう.これらの動詞の示唆する一人称単数の主語は,叙事詩においては基本的に詩人そのものを意味すると考えられるからである(cf.1.1).

次に今見た解釈と構成の特色をふまえ,つづく神話(B)「サトゥルヌスの黄金時代」の叙述(313-358)に注目したい.この部分の構成は下記のように理解できる.即ち,構造上サトゥルヌスの黄金時代への言及(1と3)を外枠にもちながら,その内部(2)においては,未来の出来事としてのローマの繁栄が言及されている.

(1) 過去の出来事(サトゥルヌスの黄金時代)313-336

(2) 未来の出来事(現在のローマ)337-350

(3) 過去の出来事(サトゥルヌスの黄金時代)351-358

ここで着目されることは,この叙述の初め(1)と終わり(3)の部分は,ローマの未来への言及が見られ,すでに検討した「ヘルクレス-カクス・エピソード」と構造上類似した構成をもつ点である.例えば,このエピソードの初めの箇所 (1)では,エウアンデルが「ローマの城塞をつくった王」(313 rex Euandrus Romanae conditor arcis)といわれている.一方,エウアンデルの語る話の内容とは,かつてこの地に黄金時代をもたらしたサトゥルヌスのエピソードであり,tumの反復(328, 330)は,エウアンデルから見た「過去」の出来事である点を強調する.「過去」と「現在」の対比という点においては,「ヘルクレス-カクス・エピソード」と同じパタンが認められることになるだろう.

他方「サトゥルヌス・エピソード」の中核をなす箇所(上記構成の2)では,再び未来のローマ人が言及される(cf.338 Romani).

uix ea dicta: dehinc progressus monstrat et aram

et Carmentalem Romani nomine portam

quam memorant, Nymphae priscum Carmentis honorem,

uatis fatidicae, cecinit quae prima futuros

Aenedas magnos et nobile Pallanteum.

そう言うとすぐ(エウアンデルは)前に進み出て,祭壇とローマ人がカルメンティスの門と呼ぶ場所を指し示す.この門は,かつてニンフであったカルメンティスを称えて造られたものであった.カルメンティスは運命を語る予言者として,初めてアエネアスの子孫の偉大さとパッランテウムの誉れを予言したのである.(337-341)

詩人の叙述はエウアンデルの時代を離れ,現在のローマの時代から見た叙述を行っているかのようである.338-339 Carmentalem Romani nomine portam quam memorantの表現において,動詞memorantの時制が未来でなく現在である点が注目される.一方340-341で語られるカルメンティスの予言の内容は,アエネアスの子孫(=ローマ人)の未来における繁栄(340 futuros Aeneadas magnos et nobile Pallanteum)となっている.この予言の真実性については,第8巻はじめのティベリヌスの予言や巻末の「楯の描写」の記述と同様,読者の経験そのものが確証を与えることになる.

さらに続く箇所においても,エウアンデルは未来のローマ人にとってなじみの深い土地をアエネアスに案内していく(342-350).

hinc lucum ingentem, quem Romulus acer Asylum

rettulit, et gelida monstrat sub rupe Lupercal,

Parrhasio dictum Panos de more Lycaei.

nec non et sacri monstrat nemus Argileti,

testaturque locum, et letum docet hospitis Argi.

hinc ad Tarpeiam sedem et Capitolia ducit,

aurea nunc, olim siluestribus horrida dumis.

iam tum religio pauidos terrebat agrestis

dira loci; iam tum siluam saxumque tremebant.

続いてこちらの大きな聖森,壮健なロムルスが聖所として定めた場所を示し,さらに涼しい岩場の下のルペルカルを見せる.ルペルカルの名は,アルカディア流にリュカエウスのパンにちなんでつけられた.さらに聖なるアルギレトゥムの森を見せ,この場所を証拠としながら,客人アルグスの死を語る.次にこちらにあるタルペイアの場所とカピトリアへと案内する.この場所は今でこそ黄金に輝くが,当時は野生の茨で荒れ果てていた.その頃は土地に伝わる恐ろしい迷信が臆病な農夫たちを脅かしていた.当時の農夫は森と岩を見て震えていた.

ここで示されるロムルス(342)を初めとする一連の固有名詞は,主人公(アエネアス,エウアンデル)にとっては未知の名であり,明らかにローマの読者を念頭においたものと考えられる.また348 nuncと349 iam nunc,350 iam tumのコントラストは,詩人の時代から見た「過去」と「現在」の対比を意味し,詩人の視点がエウアンデルの時代を抜け出し,完全にローマの時代に移行していることを示している.

一方「サトゥルヌス・エピソード」を締めくくる箇所(上記構成の3)において,エウアンデルの叙述は一転して過去の神話的エピソードを紹介していく(351ff.).例えばサトゥルヌスについては,再び次のように言及される(357-358).

hanc Ianus pater, hanc Saturnus condidit arcem;

Ianiculum huic, illi fuerat Saturnia nomen.

父ヤヌスがこちらの城塞,サトゥルヌスがこの城塞を築いた.こちらにはヤニクルム,あちらにはサトゥルニアという名がつけられた.

エウアンデルは目の前の城塞を指しながら「サトゥルヌスがこの城塞を築いた」(357)と述べているが,このときアエネアスの経験とサトゥルヌスのエピソードとの間には時間的前後関係が生じていることになる.のみならず,読者の時代においてもこれらの城塞の存在は周知の事実であったとすれば,ここにも神話上のエピソードと読者の経験する歴史的世界が相関関係のもとにおかれる一例を認めることができるだろう.

他方,今触れた357 hanc Saturnus condidit arcemという表現は,「サトゥルヌス・エピソード」の初めに見られた表現(313 rex Euandrus Romanae conditor arcis)と響き合っている.言い換えれば,詩人は一見遠い過去の出来事に言及するかに見せながら,この表現そのものが「ローマの城塞を築いた王エウアンデル」(313)という言葉を想起させるのである.この関連を認めるとき,357の表現(hanc Saturnus condidit arcem)は361 Romanoque foroと対応することがわかるだろう.このように「サトゥルヌス・エピソード」を語り始める箇所 (312-13 )と,これを語り終える箇所 (356-57)とは表現の上で対応し,未来のローマを示唆することが窺える.またこの点で,先行する「ヘルクレス-カクス・エピソード」と同じパタンをもつといえる.

さて,こうしてサトゥルヌスの黄金時代に関するエピソードを語り終えたエウアンデルは,再びヘルクレスの話題に触れて次のように述べる(362-5).

ut uentum ad sedes, ‘haec’ inquit ‘limina uictor

Alcides subiit, haec illum regia cepit.

aude, hospes, contemnere opes et te quoque dignum

finge deo, rebusque ueni non asper egenis.’

館に着くとエウアンデルはこう語った.「ヘルクレスはかつて勝利者となってこの入り口をくぐり,この王宮が彼を迎えたことがあった.客人よ,敢えて富を軽蔑し,自ら神になるに相応しい者とするがよい.この慎ましい館を見て心を驕らせて入ってきてはならない.」

この表現はヘルクレスへの言及(363 Alcides)を行なっている点で,先行する「ヘルクレス-カクス・エピソード」(184-305)を想起させるが,グランセンも指摘するように,後半の2行はアウグストゥスを初めとする詩人の同時代人へのメッセージとなっている.

つまり,今問題としている第8巻362-5において,詩人は表向きはヘルクレスに関する話題を提供しているかに見せて,同時に未来のローマ人を念頭においた表現を行っていることが明らかである.また本稿の立場としては,この「未来のローマ人」とは,単にアウグストゥス時代のローマ人に限らず,この時代以降のすべての読者を包含すると解したい.

さて,以上の考察をまとめると,上で検討してきた2つの神話的エピソードは,全体として次のような構成を持つことがわかる.

神話(A):ヘルクレスエピソード

1.今の出来事(祭りの挙行)184-189

2.過去の出来事(「ヘルクレス-カクス・エピソード」)190-267

3.今の出来事(祭りの挙行)268-305

神話(B)の導入部(306-312)

神話(B):サトゥルヌスの黄金時代のエピソード.

1.過去の出来事(サトゥルヌスの黄金時代)313-336

2.未来の出来事(現在のローマ)337-350

3.過去の出来事(サトゥルヌスの黄金時代)351-358

神話(A):ヘルクレス・エピソード(359-369)

このように,2つの神話的エピソードをめぐるアエネアスとエウアンデルのやりとり(184-369)では,主人公から見た「過去」,「現在」,「未来」の出来事が,上記のように均整の取れた構成の下で語られていることが窺える.即ち,(1) 神話上の神々(サトゥルヌスとヘルクレス)の行為,(2) 主人公の経験,(3) 読者の経験といった3つの要素が,各々時間的前後関係を持つものとして示されている.また,いずれのエピソードについても「未来のローマ」への言及が随所に認められ,全体としてローマの始まり(=サトゥルヌス・エピソード)から未来(=アウグストゥスの治世)に至る歴史を表すという構造をもつことがわかる.この点で他のエクプラシスとの関連が想起されるが,上記「神話(B)の導入部」にはこれらのエクプラシス相互を結びつけるキーワードがちりばめられていたのである.しかしながら上述の構成の特色に留意するとき,同じ第8巻後半に位置する「楯の描写」との対応・対比関係が特に重要な意味をもつように思われる.

すでに見たように,詩人は第8巻の前半部に位置するエクプラシスにおいて,ローマという土地をいわば一枚の絵と見なしながら,個々の土地にまつわる未来のローマの歴史を描こうとしていた.読者は自己の体験に即して,この予言の確からしさを確認できただろう.換言すれば,ローマの歴史が未来のローマの生まれる「場所」との関連で捉えられている.他方『イリアス』とのつながりで言えば,読者はいわば「その場に居合わせてすべてを知る立場」をとることになるが,このことによって,同じ舞台で行動したとされるアエネアスやエウアンデル,さらには彼らに先立って活躍したサトゥルヌスやヘルクレスの行いが――読者はかれらのエピソードを噂として聞くだけで本来何一つ知らないはずだが――あたかも歴史的事実であるかのような印象を与えている.

一方第8巻の後半部に位置する「楯の描写」では,ローマの歴史がむしろ「時間」の中で捉えられていることに気づく.なるほど,このエピローグでは厳密な意味で時間順でないにせよ,ローマ史が順序立てて(cf.629 in ordine)描かれていることが明らかである.むろんローマの歴史は「時間」と「場所」の一方の要素によってのみ把握できるものではない.「楯の描写」の最後を締めくくる箇所(722-728)は,アスグストゥスに服従を誓う諸民族の列挙で終わっている.

…incedunt uictae longo ordine gentes,

quam uariae linguis, habitu tam uestis et armis.

hic Nomadum genus et discinctos Mulciber Afros,

hic Lelegas Carasque sagittiferosque Gelonos

finxerat; Euphrates ibat iam mollior undis,

extremique hominum Morini, Rhenusque bicornis,

indomitique Dahae, et pontem indignatus Araxes.

敗れた民族は長い列をつくって歩いていく.言葉が多様であるごとく服装や武器も多様である.ウルカヌスはこちらにヌミディア人と彩り鮮やかなアフリカ人,こちらにはレレゲス人,カリア人,弓を運ぶゲロニ人を描く.エウプラテス川はすでに穏やかに流れていた.最も辺境の地に住むモリニ人,二つの角を持つレヌス川,どう猛なダハエ人,橋に憤るアラクセス川も彫り刻む.

ここに紹介される各民族名は,アウグストゥスの支配が文字どおり全世界に及ぶ事実を示唆している.言い替えれば,第1巻でユピテルが約束した「際限なき支配権」(1.279 imperium sine fine)に関して,「空間的に」際限のない支配権が確立された事実,および今後この支配権は永遠に継承されるという詩人の確信がここに示されることになる.

とはいえ,本稿での検討をふまえるなら,(1) 第8巻の前半部のエクプラシスにおいてはローマに現存する「場所」に歴史を語らせ,(2) 後半部では「時間」軸に従ってローマの歴史が語られている,と解することが妥当であると思われる.すなわち第8巻の前半と後半は,各々異なる観点からこの歴史の全体を描こうとする点で相補完的であるといえる.従来第8巻では,物語の展開に際だった変化が見られないことが指摘される.しかし一方において,この巻の全体は,さながら1つのエクプラシスのごとく機能し,ローマの始まりから未来に至る歴史の全体を表そうとする詩人の意志を示唆しつつ,作品の叙述に重要な枠組を与えていることが明らかである.本稿で扱った「ヘルクレス-カクス・エピソード」についても,このような詩人の狙いを色濃く反映する箇所と理解したい.

『アエネイス』のテキストはMynorsに従った.主な参照,引用文献は以下の通りである.

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