現代に生きる古典語(3)

「自立するということ」

日本語にすると固い言葉、意味のよくわからない言葉であっても、対応する英語の語源を探ると、意味の鮮明になるケースというのが結構あります。

今回は、最近よく耳にする「自立」という言葉を取り上げたいと思います。この言葉に対応する英語は、ふつう、independenceといいます。形容詞は、independentですね。アメリカの独立記念日のことを、Independence Dayというように、「独立」とも訳されます。

 さて単語の成り立ちですが、independentは、inとdependentに分解できます。inは、「無」とか「不」の意味(notの意味)を表す接頭辞です(例えばindirectは「ダイレクトでない=間接的な」)。dependentは「従属している」という意味を持つ形容詞ですから、independentとは本来「従属していない」という意味になります。

 このdependentという語はさらに、deとpendentに分けることができます。deは「下降」の意味を持ち(descendやdepressのように)、一方のpendentはまさしく「ペンダント」の意味、つまり首からぶら下がるペンダントと同じ意味を持っています。種明かしをすれば、このペンダントとは、ラテン語でまさに「ぶら下がる」状態を意味する言葉なのです。

 以上のことから、dependentとは、他人の首からだらりとぶら下がるペンダントのような状態(主体性のない状態)をさす言葉だということがわかります。日本語ですと「親父のすねをかじる」という表現がありますが、英語では「すねをかじる」といわずに、「首からぶら下がる」というわけですね。

 一方、冒頭にあげた「自立すること」、すなわちindependentな状態とは、まさにそのようなペンダント的状態を「否定すること」(接頭辞inの意味を思い出してください)を意味します。「自立」といって難しければ、「一人立ち」といっていいかも知れません。「すねかじり」状態から「一人立ち」への転換を、inという否定の接頭辞が意味していると考えると、一見とっつきにくく見える英単語のスペリングにもロマンが感じられますね。  

それはそれとして、他人から「自立せよ」といわれたら、だれだって「そんなことはわかっている、私はちゃんと自立しているよ。」と答えたくなります。アルバイトしながら、生活費や学費を自分で捻出している人はなおさらそうです。ただし、「自立」という言葉は、ふつう「経済的独立」のみならず、個人の「精神的自立」を意味するように思われます。

 たとえば、「自立」とともによく聞く言葉に「個の確立」というのがあります。「インターネット・コミュニケーションにおいては、何よりも個の確立が要求される。」といったふうに。「自立しなさい」といわれたら、どうすればいいかおおよそのイメージがわくのですが、「個を確立せよ」といわれても、具体的にどうすればいいか、ちょっととまどいます。

 ここで「個」とは何かを言葉に即して考えてみますと、英語にindividualという言葉があることに気づきます。inは、先ほどでてきた「打ち消し」のinです。dividualのスペリングに、「分割する」を意味する動詞のdivideが認められます。語源はラテン語のdividere(分ける)です。つまり、「個人」とは「これ以上二つに分割できない存在」というニュアンスをもつことがうかがえます。  

一方「個」に対立する言葉は、英語ですとgroupです。日本語だと「みんな」がこれに当たる気がします。「みんな大学に行くから私もいく。」という言い方における「みんな」です。「みんな何なにしている」けれども「自分はこうする」と判断するとき、われわれは先入観にとらわれない「自分の」考えを大切にしていることになります。つまり「個の確立」につながります。

 今「先入観」という日本語を使いましたが、英語ですとprejudiceがこの日本語に対応します。preの部分は「前もって」を意味し、judiceの部分は、ラテン語で「判断」を表すjudicium(ユーディキウム)が元になっています。つまり「先入観を持つ」とは、自分で確かめることなく「先に判断する」態度を意味します。このとき思考が停止するといっていいかもしれません。

 思考が停止するから、何かにもたれないといけなくなる、というわけで、知らず知らずのうちに自分以外に判断の根拠を求める(=権威にもたれかかる)体質ができあがっていくのです。このようなことを考えるとき、繰り返しになりますが、冒頭にあげたindependenceという語は、他人からの経済的独立だけでなく、何より自分の内側に判断の根拠をもつこと、思考を働かせる態度を意味すると思われるのです。  

インターネット・コミュニケーションにおいては、その性質上ひとつの権威が絶大な支配力をふるうことはありえません。裏を返せば、画一性ではなく、多様性がその特質を表すキーワードになってきます。ちなみに、従来支配的なコミュニケーションのスタイルは、いわずと知れたマスコミ(=mass communication)ですね。マスとはギリシア語で「大麦のケーキ」を意味するマーザが語源です。大きな固まりというイメージが一人歩きを始め、やがて英語のmass(大衆の)にたどりついたというわけです。このような「マス(=みんな)」のイメージに対立する概念として、私は今回individual(個人)という語を指摘したいわけなのです。そして、インターネットこそ、このindividual communicationにふさわしい場ではないかと期待しているのです。  

私たちは、知らず知らずのうちに他人の作った「先入観」を無批判に受け入れ、ため息をついているのかもしれません。「みんなが行くから、大学が大事」と思ったり、「みんなが言うから、英語やコンピュータが大事」に思えたりするのです。しかし、厳密に考えれば、大学が大事と言うよりも、大学で「自分が」何をするかが大事なのであり、また英語やコンピュータが大事というよりも、「自分が」英語やコンピュータでいかなるコミュニケーションを行うかが、重要な意味をもつはずです。  

では、ここでいうコミュニケーションとは、本来どのような意味を持つ言葉なのでしょうか。コミュニケーションという単語は、最近の日本語では、ほとんど和製英語としての地位を確立していますが、元々は「他人と分かち合う」を意味するラテン語のcommunicatio(コンムーニカーティオー)が語源です。  実際、インターネット・コミュニケーションにおいて、私たちはごく自然な形で、「自分個人」の意見を他人に伝え、他人からその考えを聞くというやりとり(=情報の共有化)を重ねています。そしてこの過程に参加することで、私たちは他人のまねではない自分の考えが、本来どのようなものであるかを知ることができるのです。  

最後にひとつお伺いします。みなさん自身は、これからの時代、何が大切だと思いますか。友人ですか。やはり学歴ですか。模範解答などありませんね。自分の頭でよくよく考えてみて下さい。これからの時代「も」大切なものはなにか?と問い直した方が、いい答えが見つかるかもしれませんよ。私は「人と人のコミュニケーション」と答えたいと思います。従来のピラミッド型社会において、個人間のコミュニケーションは十分機能してきたとは思えませんから。  

上でみたように、他人とのコミュニケーションを大切にすることは、自分の固有の価値(individuality)を再認識し、それを大切にすることと不可分です。「みんなの意見」に従う癖がつくと、「自分が何者なのか」がわからなくなります。ひいては生きる意味も不鮮明になります。デルポイの神託(古代ギリシアにおける神のお告げ)は、「いかにして幸福になれるのか」という問いに対して、「汝みずからを知れ」という言葉を返したそうです。この言葉の真意を、今一度インターネット・コミュニケーションとの関連でかみしめたいと思います。表題に上げた「自立する」プロセスとは、本来「自分を知る」道程と同義であると思われるからです。