印象と表現

デカルトの『方法序説』に出てくる有名な言葉として、「我思う、故に我あり」というのがある。ヘレン・ケラーは、この言葉に出会ったとき、自分の肉体的ハンディは自分の本質ではない、本質は自分の心にある、という己の信念を力強く支える言葉に出会ったと述懐している。

問題は、デカルトの言葉のどこにそれだけの力があるか、ということである。I think, therefore I am.は、平易な日本語で訳せば「私は考える。だから私は生きている。」となろう。生きる意味は、物事を自分の頭で考えている限り保証されるというわけである。三重苦の彼女にとって、「思考」の営み、言い換えれば、言語活動そのものを人間存在の本質とみなす考えは、大きな励ましを与えるものであった。

ここで、デカルトの書いた『方法序説』について、ちょっと振り返ってみよう。デカルトは、この作品をフランス語で書いた理由について、「まったく純粋な自然的理性だけをもちいるひとたちは、ふるい書物だけしか信じないひとたちよりも、もっとよくわたしの意見を判断してくれるだろうと期待しているからである」と述べている。ここでいう「自然的理性」を用いる人とは、「誰にも生まれながら備わっている善悪の判断力」(冒頭で、理性は万人に最も平等に分配されていることが論証されている)を用いる人のこと、つまりラテン語を読み書きする学者ではない一般の人々のことである。であれば、表題の『方法序説』という日本語も、もう少し平易な日本語のタイトルであってもよさそうだ。

原語「ディスクール・ドゥ・ラ・メトッド」とは、直訳すれば「方法の話」という意味になる。では何の方法かと問うと、それは本文にヒントがある。デカルトは、本書の執筆動機について、

「わたしの目的は、ここで各人がその理性を正しく導くために従うべき方法を教えることではなく、ただ単にわたしがどのように自分の理性を導くべく努力したかをお目にかけることである。」

と述べている。「人々が従うべき方法」を高所から「教える」のではなく、「自分が従ってよかったと思う方法」を謙虚に「紹介する」と言うのである。実際、デカルトは「本書をひとつの話として、まねたほうがよい手本の中に、おそらくは従わない方が賢明な例もいくつか発見されるひとつの寓話として提供する」述べている。この点を考慮すれば、私なら『方法序説』という表題の代わりに、『私の人生』とか『これが私の生きる道』くらいのタイトルをつけたいところだ。

さて、デカルトはヨーロッパで最も著名な学校のひとつ(ラ・フレーシュの学院)で学ぶべきことのすべてを学んだと自負しているが、「勉学に努力したことによってますます自分の無知を発見した」と告白している。そしてある日、次のような決心をする。

「(私は)世間という大きな書物のなかに発見されるかもしれない学問以外はもはや求めない決心をして、青春の残りを、旅行し、ほうぼうの宮廷や軍隊を見、各種の性格と身分の人たちと交わり、いろいろの経験を積み、運命が自分に与える機会をとらえて自分を試練し、至る所で自分の前に現れてくるさまざまの事柄について反省を加えて、そこから何らかの利益をひきだすことにもちいたのであった。」

その結果はどうであったのかというと、次のように述べている。

「このようにして数カ年を世間という本について研究し、いくらかの経験をえるために費やした後、わたしはある日、自分自身を研究し、自分のとるべき道を選ぶために、自分の精神の全力を傾けようと決心した。このことはどうやらうまく運んだが、もしわたしが自分の国、自分の書物から離れていなかったならば、このように好都合には運ばなかったであろうと思われる。」

そしてこの長年に渡る「自分探しの旅」の結果として発見した言葉が、はじめに触れた「我思う、ゆえに我有り」ということになる。この言葉について、デカルト自身は次のようにコメントしている。

「それはすなわち、このようにすべてのものを虚偽と考えようと欲していた間にも、そう考えている「わたし」はどうしても何ものかでなければならないということであった。そして、「わたしは考える、だからわたしは存在する」というこの真理は、懐疑論者のどんなに途方もない仮定といえどもそれを動揺させることができないほど堅固で確実なのを見て、わたしはこれを自分が探求しつつあった哲学の第一原理として何の懸念もなく受け入れることができると判断した。」

さて、冒頭で触れたように、デカルトの「我思う、ゆえに我有り」という言葉は、「色も音もない世界に閉ざされた」ヘレン・ケラーの心の目を開かせるにじゅうぶん「力強い5つの言葉」(英訳では、I think, therefore I am. ラテン語の場合、Cogito ergo sum.の3つ)であった。私たちも彼女にあやかって、「思考の訓練」を積みたいと思うばかりである。では、それには、具体的にどうすればよいのかというと、私は思考と言語活動の関連に着目する。

この関連については、次のようなヘレン・ケラーの興味深い指摘がある。彼女は7歳の時、サリバン先生に「水」=waterであることを教えてもらった経験を述懐してこう述べている。

「話すことを学んでから私の生活は広がりました。私は今でも、あの36年前の出来事に驚きと興奮を禁じ得ません。(略)私が耐えてきた苦痛と失望ははかりしれませんが、外の世界と私自身とを結ぶこの言葉という生きた絆(きずな)を保っていける喜びのためなら、十分払うに価する代価でした。私はますます古今不滅の奇跡、つまり思考のリアリティを感じるようになりました。(略)普通の人たちは言葉の使用に慣れていて、自分がいつからそれを使うようになったのか思い出せません。ところが、私はそれとは違った経験をしたのです。私が言葉を使いはじめたのは7歳のころですが、その時経験した感情をはっきりと覚えています。私はまず一語一語を手の感覚で学び、何年かのちにその発音を学びました。私が思うに、たいていの人は発音と同時にその言葉の意味を学んでいくのでしょう。けれども私の場合は、言葉が思考のシンボルであるということをある日突然理解したのです。」(ヘレン・ケラー、島田恵(訳)『光の中へ』)

実際、デカルトの「私は考える」の部分は、「私は言語表現を行う」と読み換えていいのではないかと思われる。具体的には、自分の考えや思いつきを何でも紙に書いて(キーを叩いてディスプレイに)表現していくことが大事な作業になってくるだろう。テレビを見て笑っているだけの時間は無論「思考」の時間ではないし、学校教育における「勉強」の時間も、単に板書をノートに写し、ひたすらデータを暗記する作業を意味するのであれば、これも「思考」の時間とは呼べない。

さて、私は以上紹介してきたヘレン・ケラーの経験と主張をふまえつつも、そしてデカルトの「自分捜しの旅」に大いなる共感を抱きながらも、個人的には、デカルトの言葉を「我表現す、故に我有り」と置き換えて理解したい。「我有り」を実感する手段は、私の経験では、言語活動=「思考」に限定されないと思うからである。以下は、デカルトのテキストを離れた私の感想である。

まず初めに「表現」(expression)という言葉について、英語の語源面から、若干コメントしておく必要があるだろう。日本語で、「表現」(expression)と「印象」(impression)は、ペアで論じられることはあまりないが、英語の語源でみれば、二つは表裏一体の関係にあると思われる。 インプレッションとは、感動的な情報(文字、色、音、映像、その他)が胸の中に刻み込まれることを意味する。この言葉は、胸の中に感動を刻み込む力(プレスは圧力を加える意味)の存在を前提としている。この力がある臨界点に達するとき、ちょうどミカンを押しつけると果汁 がほとばしり出るように、胸の中の感動は体の外に向かって飛び出そうとする。このように内面の深い感動が何らかの形式を与えられて「外に」(「外に」とは、ex-pressionのexに込められた意味)現れるとき、それが「表現」と呼びうるものとなるだろう。

私はこの「表現」を通して、各人が己の個性を自覚することができるのではないかと考える。我々の個性は互いに異なっているといわれるが、多くの人は、自分が何者かわからないと口にする。それは「印象」に残る経験が少ないためか、「印象」をもとに自己を「表現」する機会が少ないためか、詳しい事情はよくわからないが、少なくとも今の日本の学校教育において、「暗記」は重視しても「印象」と「表現」は軽んずる、これだけは確かなようである。

実際、我々はめいめい同じ対象から異なった「印象」を得るのだろうし、「印象」の強弱も各人によって異なるのだろう。また、このような「印象」をもとにして、自分の側から「表現」を行う際、その形式の多様性は「表現」する人間の数だけ異なっているといえるだろう。従って他人に深い「印象」を与えることに成功するかどうかは別とすれば、われわれの「表現」は常に独創的(original)である。世界に一つしかないユニークな「印象」(感動)を経験し、歴史始まって以来の「表現」を行うのが常である。このかけがえのない経験を重ねることで、われわれは「自分とは何か」についての洞察を得、生きる意味を味わうのだと思う。

私達はもっと「世間という大きな書物」から深く学ぶべきである 。旅行をし、優れた芸術に接し、積極的に素晴らしい体験を重ねること、そして、優れた「印象」を重ねることで、優れた「表現」を行う基礎ができあがるだろう。この基礎があって初めて、その「表現」に普遍的価値を与える「技術」の錬磨に社会的意義が与えられるように私は思う。