文学と定義

文学と定義

「文学 」は英語でliteratureという。語源としては、「文字、手紙」を意味するラテン語のlittera(リッテラ)があげられる。英語でもa man of lettersというと、「手紙の男」ではなく「文学者」を意味している。

litteraに関連した英単語としては、literate(学問のある、読み書きの出来る)という形容詞や、コンピュータ・リタラシーという言葉でおなじみのliteracy(読み書き能力、学問のあること)という名詞がある。

私は大学で「文学入門」と題する講義を担当しているが、先日受講生に「私と文学」という題でレポートを書いてもらい、ちょっとしたカルチャー・ショック(culture shock)を受けた。学生の書く文章の中に一番よく出てくるせりふは、「私は文学は苦手」というものであった。

授業では、音楽、絵画と比較して文学の芸術性について語っている。すなわち、音やリズム、色や線などを工夫して人の心をとらえることができるように、言葉の選択や配置を工夫することでひとつの芸術が生まれる。

学生の提出したレポートを読んでいると、「本は読まない」学生が圧倒的に多いようだ。忙しすぎて始終腕時計は見るけれども、たとえば五月の青空を見上げる余裕もない、というのが彼らの実情なら、文学に限らず他の芸術との接触もとだえがちになるだろう。

忙しいそうな学生に限って、「なにかよい本を紹介してほしい」と書くようだ。ところが、本とのつきあいを人間とのつきあいと同じように考えている私としては、他人に「良い本はこれこれだ」と紹介する理由をもたないし、その力もない。

多くの人に愛される人物とじかに話し合う機会は、日常生活で簡単に得られるものではないが、多くの人に愛される、あるいは愛されてきた文学作品に接する機会は自分の意思ひとつで自由に得られるだろう。

キケローは「真の友はまれである」と述べた。「真の友人は第二の自己」という言葉も残っている。友人関係を大切にはぐくむとは、自分の内面を磨く努力と別のことではありえない。

同様に、私たちが文学作品とよい関係を結ぶには、文学が好んでとりあげる諸々の主題に関して、それをまず自分の言葉で「定義」(define)する努力を日頃惜しんではならないのである。すなわち、人間とは?愛とは?国家、社会とは?確かにこれらの問題に対する洞察を欠いて「文学」に接するなら、「苦手意識」が増すだけであろう。

すでに、英単語の語源との関連で、「定義とは縁取りである」という話をした(definitionの中に、finis=縁、端という言葉が含まれる)。カメラで目の前の風景を写すことは、ファインダーで風景の「縁取り」を決めることである。三次元の世界を二次元の紙の上に表現することはしょせん不可能なことではある。しかしわれわれその無理を承知で写真を撮るし、一流といわれる写真家の作品に芸術性を認めている。

同様に、「人間とは何か」について言葉で定義を行うことは本来不可能なことであるが、この「不可能」という意味は「無限の可能性がある」という意味で解釈すべきである。だからこそ、日々新たな文学作品――新しい「定義」の提案――が生まれるのである。

にもかかわらず、我が国の国語教育において、文学作品の扱う主題の「定義」の可能性が「無限」ではなく「有限」であるかのように扱われているとしたら――次の四つから正しい答えを選べ式の出題を想起してほしい――、「文学は苦手」と感じる若者が増えるだけであろう 。真っ白な紙に自由に絵を描く場合と、塗り絵で色まで指定されたケースを比較してほしい。絵画教育が、塗り絵の強要の連続であるとしたら、だれだって「絵を描くことはイヤ」になるに違いない。

文学が「こう読まねばならない」性質のものでないのは、音楽や絵画と同様である。そして、すぐれた芸術作品は、単に人間の心を豊かにするだけでなく、鑑賞者に新しい芸術の創造にかりたてるといった性質をもっている。文学作品の場合は、それを読む者に深い感動を与えると同時に、人生の大切な問題を洞察し、それを自分の言葉で「縁取り」するように促すであろう。

では、その大切な問題とは何か。言いかえれば、文学という芸術形式が、我々自身の「定義」を要求してやまない問題とは何か。私のつたない読書体験に照らして答えるならば、それは「汝自らを知れ」という古くて新しい問いであろうと思う。