ヘクトルの死

トロイアの英雄ヘクトルは、『イリアス』第22歌で、アキレウスに討たれ命を落とします。父プリアモス、母ヘカベの嘆願を聞かず、門外でアキレウスを迎え討とうとして。その最後の場面はこうです(355-66)。

「彼(アキレウス)に対し、輝く兜(かぶと)のヘクトルは、死を眼前にしてこう語る。 「実におまえの本性はよくわかった。これからどうなるかもよくわかる。おまえを説き伏せようとしたのが間違いだ。おまえの胸には鋼(はがね)の心があるのだからな。だが気をつけるがよい。いかにおまえが手強かろうと、おまえをパリスとポイボス・アポロンがスカイア門にて打ち倒す日に、この私が、神々の怒りの原因とならぬようにな。」 こう述べると、死の終わりが彼を包み、魂が四肢を離れ、冥府に向かって飛び去った。おのが運命を嘆き、雄々しさと若さとを後に残して。一方、神のごときアキレウスは、死にゆくヘクトルに向かい、こう言い放つ。 「死ぬがよい。私はゼウスと他の神々がそれを終えんと欲したとき、己の運命を受け入れようぞ。」

ヘクトルの死は、まるでトロイアの陥落を象徴するかのようです。

「このようにヘクトルの頭はことごとく砂塵に塗れたが、その母はわが子の姿を見ると、髪の毛をむしり、艶やかなヴェイルも遠くへ投げ棄て、声を上げて激しく嘆く。 父王も哀れな声で呻き、町を挙げて市民は王を囲んでヘクトルを悼んでは叫び、悲しんでは泣いた。そのありさまはあたかも、眉のごとく突き出たイリオス(トロイア)の町全体がことごとく焼け落ちるかのよう。」

詩人はひとしきり父と母の悲しみを描いた後、夫の死をまだ知らない妻アンドロマケの不安に焦点をあわせます。

「妻の方は、ヘクトルのことを未だなにも知らずにいた。彼女の夫が門外にとどまっていることを、確かな使いが来て告げていなかったからで、彼女は宏壮な屋敷の奥の間で、二幅もある赤紫色の大きい服地を織り、色とりどりの花模様を縫い取っていた。 屋敷の中の髪美わしい侍女たちに命じて、大きい三脚釜を火にかけさせたが、これは戦場から帰ったヘクトルのために湯を用意しておくつもりであった。愚かや、その夫は風呂からは遠く離れたところで、眼光輝くアテネが、アキレウスの手で討たしたことを知らぬのであった。 城壁の辺りから泣き悲しむ声を聞いたとき、彼女の手足はぶるぶると震え、その手から梭(ひ)が床に落ちた。」

最後の「彼女の手足はぶるぶると震え、その手から梭(ひ)が床に落ちた。」という表現は、まるで映画のワン・シーンを想わせるかのようです。また、夫の無事を信じ、せっせと服地を織り続けるアンドロマケの姿は、第6巻でヘクトルが彼女に言い残した言葉、すなわち、

「さあ、そなたは家へ帰り、機を織るなり糸を紡ぐなり、自分の仕事に精を出し、女中たちには各自仕事にかかるように言いつけることだ。戦さは男の仕事、このトロイアに生を受けた男たちのみなに、取り分けてわたしにそれはまかせておけばいい。」

を想起させるでしょう。ヘクトルの死を知った彼女は悲しみに取り乱し、涙ながら次のように語ります。

「ヘクトル、わたしはなんという不運な女なのでしょう。わたしたち二人は同じ運命の下に生まれたのですね。(略)ともに不運なあなたとわたしの産んだ子は、まだほんの赤子。ヘクトル、あなたが亡くなっては、この子の力になってはいただけぬでしょうし、この子もあなたのお役には立ちますまい。」

息子アステュアナクスへの言及は、再び、第6巻における親子の出会いの場面を読者に思い出させるでしょう。この場面で、ヘクトルの青銅の甲冑におじ気付いた息子の姿を見て、父と母とは声を立てて笑ったのでした。

その場でのヘクトルの祈りの言葉も、今となっては空しいものでしかありません。アンドロマケは、丹精込めて準備した「織り目の細かい美しいお召し物」はみな火にかけて焼いてしまおう、と言い放ちます。

「どうせあなたの亡骸にお着せできぬのなら、何の役にも立たぬのですから。でもそれがせめてトロイアの男女からあなたへ寄せる尊敬の想いのしるしとなるように。」

この言葉をもって、『イリアス』第22歌は幕を閉じます。

イリアス〈上〉 (岩波文庫)
ホメロス Homeros
4003210212