西洋の古典文学には、教訓詩(didactic poetry)とよばれるジャンルがあります。ギリシア文学ですと、ヘーシオドスの『仕事と日』が代表的な作品です。岩波文庫で、100ページ足らずの作品です(全部で800行ほど)。翻訳は、『イリアス』、『オデュッセウス』など数々の古典文学の翻訳をてがけておられる松平千秋先生の訳です。

文庫本の表紙には、こう記されています。「飢えをしのげるように神々が我々に与えたもの、それが仕事すなわち農耕である。こうヘーシオドス(前8-7世紀頃)は説き、人間が神ゼウスの正義を信じ労働に励まねばならぬことわりを、神話や格言を引きつつ物語る。古代ギリシアのこの教訓叙事詩からは、つらい現世を生き抜く詩人の肉声が伝わってくる。」と。

「仕事は飢えをしのぐ手段である」という表現の背後には、「仕事をしなければ人間は飢える」という意味が読みとれますが、このように「働かないと食べていけない」というコンディションも、「働けば食べていける」というコンディションも、ともに神々、とくにゼウスが操っているとされます。有名なパンドラの物語の導入部で、「これももとはといえば、神々が人間の命の糧を隠しておられるからじゃ。さもなくばお前も、ただの一日働けば、後は働かずとも一年を暮らすだけの貯えが得られるであろうに。」と詩人は述べています。では、なぜゼウスは人間の命の糧を隠したのか、その理由を語るのが、パンドラのエピソードです。

「・・・ゼウスは、奸智のプロメーテウスに欺かれ、怒り心頭に発して、(命の糧を)隠し、人間どもに過酷な苦悩を与えるべく思案の末に、火をも隠してしまわれた。それをまた、イーアペトスの優れた子(プロメーテウス)が、人間どもの身を案じ、大ういきょう(ナルテークス)の茎のくぼみに入れ、雷火を楽しむゼウスの目を掠(かす)めて、明知のゼウスのもとから盗み取った。雲を集めるゼウスは怒って、プロメーテウスに仰せられるには、『知略衆にすぐれたイーアペトスの子よ、そなたは火を盗み、わしの心をたぶらかして得意の様子だが、それはそなたにも、この先生まれくる人間どもにとっても大いなる悲嘆の種になるのだぞ。わしは火盗みの罰として、人間どもに一つの災厄を与えてやる。人間どもはみな、おのれの災厄を抱き慈しみつつ、喜び楽しむことであろうぞ。』」

この罰として人間に与えられた災厄が、パンドーレー(パンドラ)という名の女性だったのです。

「それまでは地上に住む人間の種族は、あらゆる煩いを免れ、苦しい労働もなく、人間に死をもたらす病苦も知らず暮らしておった。ところが女(パンドラ)はその手で瓶の大蓋をあけて、瓶の中身をまき散らし、人間にさまざまな苦難を招いてしまった。そこにはひとりエルピス(希望)のみが、堅牢無比の住居の中、瓶の縁の下側に残って、外には飛び出なかった。」

エルピス(希望)のみが瓶の中に残った点に関して、学者の間でも意見がわかれているようですが、素直に考えれば、人間は諸悪の中にあって希望のみを頼りに生きている、と解するのがよいと思います(松平説)。では、希望を頼りに生きるとは具体的にどうすることかといえば、冒頭で紹介したように、「神ゼウスの正義を信じ労働に励まねばならぬ」ということになります。たしかに「労働しなければ人間が飢える」ことは必定です。この定めにゼウスの意志の反映を見出すのなら、同時に、「労働すれば飢えなくてすむ」事実にも着目し、ここに希望を見出し、ゼウスの意志の反映を知るべきでしょう。英語にNO PAIN NO GAINという言葉がありますが、わたしたちは、PAINにためいきをつくのか、GAINに希望をもつのか、選択の自由が残されています。

他方、プロメテウスの盗んだ火とは、現代流に言えば、文明生活の象徴としての火を意味するでしょう。ところが、人間が火を得たことは、はたしてよかったことなのかどうか、といえば、必ずしも善い面ばかりではなく、むしろ災いの多いことを私達はよく心得ています。たとえば、この点に関して、ローマの詩人、ホラーティウスは、次のように述べています。

どんな行為も平気でやり遂げる人間は、禁じられた非道の行いへとまっしぐらに突き進む。大胆にもイアペトゥスの子(プロメテウス)は、悪しき奸計を用いて人類に火をもたらした。火が天の館から盗まれた後、困窮と新しい熱病の群れが大地を襲い、かつては遠ざけられ、ゆるやかに訪れた死の必然は、その歩みをはやめた。ダエダルスは人間に許されぬ翼をもって広大な空に挑んだ。ヘルクレスの功業は、アケロン(冥界)まで突き破ったのだ。人間にとって、困難なことは何一つない。人間の愚かさは、天そのものを乞い求め、我々の罪により、ユピテルが怒りの雷を投げ落とすことすら許そうとしない。(『詩集』1.3)

ここでは、プロメテウスの火盗みと同様、ダエダルスの天への挑戦(=翼をつけて飛行した)等が、人間の分を弁えぬ行為としてネガティブにとらえられています(なお、ユピテルというのは、ギリシア神話におけるゼウスに相当します)。人間によかれと思ってとったプロメテウスの行為は、あたかも「人間の愚かさ」の先駆をなすものとして語られているかのようです。

もっとも、今さらプロメテウスから得た火を天にお返しするわけにもいかないし、人間が数々の困難に挑戦する(ヘルクレスの功業も、普通はポジティブに解されます)行為を控えるわけにもいきません。このあたりのジレンマを、ホラーティウスは描こうとしているようです。あとで見ますように、人が海に船を浮かべる行為も、大地に鋤を入れる行為も、ギリシア・ローマ時代においては、人間による「自然への冒涜」として把握されました。ヘーシオドスの場合、今触れたジレンマの問題について、五時代説話を通して次のように表現しています(この説話が後世に与えた影響は甚大です)。

人間はかつて黄金の(種族の)時代を楽しんだが、やがて、時代は銀の時代、青銅の時代と退化し、今の人間は忌まわしい鉄の時代を生きているという話です。ヘーシオドスは黄金の種族について次のように描いています。

これはクロノスがまだ天上に君臨しておられたクロノスの時代の人間たちで、心に悩みもなく、労苦も悲嘆も知らず、神々と異なることなく暮らしておった。惨めな老年も訪れることなく、手足はいつまでも衰えず、あらゆる災厄を免れて、宴楽に耽っていた。死ぬときはさながら眠るがごとく、あらゆる善きものに恵まれ、豊沃な耕地はひとりでに、溢れるほどの豊かな稔りをもたらし、人は幸せに満ち足りて、心静かに、気のむくにまかせて田畑の世話をしておった。

しかし、ヘーシオドスによれば「今の世はすなわち鉄の種族の代」なのです。そして、「昼も夜も労役と苦悩に苛まれ、そのやむときはないであろうし、神々は過酷な心労の種を与えられるであろう、さまざまな禍いに混ざって、なにがしかの善きこともあるではあろうが。」といわれます。神々の与える心労の種は、上で見たプロメテウスの火盗みへの罰と響き合っています。

一方、「なにがしかの善きこと」とは、パンドラの守ったエルピス(希望)を想起させるでしょう。ということは、労働にいそしむことこそ、人間に残された唯一の選択肢、ということになります。上に触れたように、労働というPAINにゼウスの罰の反映を見、(労働の結果としての)GAINに希望を見る、あるいはゼウスの正義の反映を認めることが必要だと詩人は示唆するわけです(ゼウスの正義とは、ここでは、仮にNO PAIN NO GAINの原理が正しいと認められるなら、その正しさ(のようなもの)を意味しています)。

実際、ヘーシオドスは、鉄の時代にあってなお正しく生きること(=ゼウスの正義を信じて生きること)のできる可能性を信じています。例えば、次の「正義の国」の記述をご覧下さい。

異国の者にも同国の者にも、分けへだてなく、正しい裁きを下し、正義の道を踏み外さぬ者たちの国は栄え、その国の民も花開くごとくさきわうものじゃ。国土には若者を育てる「平和」(エイレーネー)の気が満ち、遥かにみはるかすゼウスも、この国には、苦難に満ちた戦争を起こさせようとは決してなさらぬ。正しい裁きの行われる国では、「飢え」(リーモス)も「災禍(さいか)」(アーテー)もつきまとわず、人々は宴(うたげ)を催し、おのれの丹精した田畑の稔りに舌鼓を打つ。この国の大地は、命の糧を豊かにもたらし、山では樫(かし)の木が、その頂きに樫の実をみのらせ、幹の中頃には蜜蜂が巣くう。羊はその毛もふさふさと重たげに垂れ、女どもは父親に似た子を産む。人々は様々な幸(さち)に恵まれ、いつまでも変わることなく栄え、船を用いて海を渡ることもない、穀物を恵む耕地が、稔りをもたらすからじゃ。

この記述は、ローマの詩人ウェルギリウスが、『農耕詩』第二巻エピローグ(「農耕賛歌」)を書く上で、じゅうぶん参考にしたと思われます。