ラテン語を学ぶ意義

2016年6月15日

先日のラテン語の夕べではあえて「翻訳することの大事さ」を述べました。語学の習得という目的に絞って言えば、カエサルやキケローを暗唱するなどして音の響きも何もかも自分のものにできたらよいのでしょう。

一方、私たちが普通にラテン語を学ぶ場合、一般的なのは、文法事項を学びながら、ラテン語→日本語、あるいはその逆の日本語→ラテン語の訓練を繰り返すことです。それはそれで大事なことをやっているのだ、というのが話の一つの趣旨でもありました。

お気づきの通り、日本の場合、漢文は中国語として学んできたのではないということです。いったん日本語に直し、日本語で意味を考えてきました。日本語を磨いてきたと言い換えてもいいと思います。

明治以降はヨーロッパの現代語もそのようにして翻訳することに専念していた時期が長かったです。最近でこそ、日本語を仲介させずに学ぶのが効率的であると言われ、それなりの成果もあげていますが、ラテン語は基本的に話す相手はいませんし、ディクテーションやリスニングの練習をすることもあまり現実的ではないと思います(日本語を仲介させずに学ぶとしたら、原文の暗唱に如くはないと考えられます)。

つまり、一昔前まで、我が国で重要視してきた英語の学習方法は、今示唆しているようなラテン語の学習方法にほかならず、「本が読めても話せない」と批判され続けましたが、「日本語をみがく」という観点で言えば、じゅうぶん大事な役割を果たしていた、と言えるのではないか、ということです(逆に最近はそれが疎かになっている)。

同じことが、ヨーロッパにおけるラテン語教育の伝統についても言えると思います。イギリス人であれフランス人であれ、ラテン語を自国語に訳す修練を重ねながら母国語を磨き上げてきたように思います。

ひるがえって私たち現代の日本人についてですが、この100年あまりの間、外国語を学ぶ選択肢が驚くほど増えました。それにあわせ、世界中と言ってよいほどの広範囲に渡る各国の翻訳書が書店を賑わせています(こういう現象は日本だけでしょう)。

日本文化の特徴は「多様性」にあると思います(「料理」についてとくにこのことを強く思います)。私の希望は、ヨーロッパ人が自国の文化創造の隠し味として、ラテン語の言葉を今も大事にするように、私たち日本人もその素晴らしさにふれてほしい(翻訳でもよい)。同時に、東洋の現代を生きる国民として、漢文の素晴らしさも再発見したいと思います。

こうして欧米文化のふるさとであるラテン語(+ギリシア語。もっともラテン語を通じてギリシア文化も現代に伝わる)と東洋文化のふるさとである漢文を学ぶことで、きっと今までになかった──漱石・鴎外は漢文+欧米の現代語の理解──知的創造が生まれると期待しています。