Cultura animi philosophia est.

「クルトゥーラ・アニミー・ピロソピア・エスト」と読みます。
cultūraは「耕作、耕すこと」を意味する第1変化名詞cultūra,-ae f.の単数・主格です。この文の主語とみなします。
animī は「精神」を意味する第2変化名詞 animus,-ī m. の単数・属格です。
philosophiaは「哲学」を意味する第1変化名詞philosophia,-ae f.の単数・主格です。この文の補語とみなします。
estは不規則動詞sumの直説法・現在、3人称単数です。
直訳は「精神の耕作は哲学である」となります。
「精神を耕すことが哲学である」と意訳できます。
キケローの『トゥスクルム荘対談集』2.13 に見られる言葉です。

余談

クルトゥーラは英語のカルチャーの語源。元々は、畑の耕作を意味しました。アニミーは「心、精神」のことで、それを耕すというのは一種の比喩表現です。心の大地に肥料を撒き、精魂込めて耕すことで立派な作物を生み出していく。人間が哲学をし、人格を陶冶するプロセスを「心の耕作」と言い換えている点がユニークです。

ピロソピア(英語のフィロソフィー)は語源に照らして訳せば「知を愛すること」。キケローは別の箇所で哲学を「すべての学芸の母」と呼び、神が創りだしたものと述べています。さらに、敬神、法の制定、魂の規律と高潔さを教えたのは哲学だった、とも。要は、よりよい人間社会を築く基礎として哲学が位置づけられています。

では、個人にとって哲学はどのような意味があるのでしょうか。キケローは、「哲学者の人生は死の準備」と言いました。これは当時の哲学にかんする伝統的な定義の一つです。人としてよく生きるとは、死に備えること、言い換えれば、死を恐れず、平然とこの世からあの世に旅立てる心を養うこと。それを可能にするのが哲学だと言うのです。

なぜそのようなことが可能なのか。この疑問を抱く人は、死についてあれこれ思案しながら心を耕すでしょう。すでに哲学を──重い言葉ですが──学ぶ心構えのある人と言えるのではないでしょうか。